world.execute(me)
がちゃりとした音は特務司書である彼女がその部屋のドアノブを開けたものの為、窓を開けたままであったのか彼女の髪間を心地好い仄かな風が撫で抜けていく。ふんわりと風をはらみ膨らんでしぼむカーテン、胸元に携えた書類を抱え直しながらちらりと視線を向けて彼女は後ろ手に扉を閉めた。彼女がぱちりと瞬いたのはカーテンが揺れた所為ではなく、デスクの上に眼に鮮やかな色合いを見つけたからだ。絨毯の上に彼女の足音は小さく、それで卓上へと書類を預けた際の紙の僅かなかさりとした音。
静かに卓上で主を待っていたのは花で、淡い白のそれハナミズキであると彼女は指の腹に撫でる。白の花が寄り添っているものは桜かと思ったがそちらも何度か花びらを撫でているうちに気付いた、どうやら桃の花のようだと。
贈り主の分からぬ花を手に取って彼女は香りを知る、いったい誰が置いたものだろう。南吉や賢治が摘んできたらしい小花が卓上や窓際に置かれていたことはあったが、この花たちは簡単に摘んでこられるようなものではない。わざわざ買ってきたものだろうか、そうして誰だろうか。誰からのそれとも分からずとも彼女はその頬を笑ませた、仄かに甘いような花の香りが気を落ち着かせる。少しだけ、特務司書の業務に追われ忙しい日々を遠くにしたような心持ちだ。
香りに暫し閉じた瞼を開き、花を花瓶に活けようと思った彼女の眼差しの先にどうやら風で数枚散ってしまったであろう桃色の花びらが。それは白い本の表紙に描かれたように。
特殊侵蝕書、そうしてその本のタイトルは怪談。かいだん、と彼女の唇は声には出さずに呟く。花びらを摘まみ上げる際に指先が掠めた本の表紙は何故だか揺れる水面を思わせた。それに潜る文豪であればそうともするが自身が本に潜ることなどできるわけがない、けれどと一瞬指先をどきりと跳ねさせる。恐々に触れ直した本はやはりその通りの普通の本の触り心地で、少しだけ詰まらせた息をほぅと唇に零して司書はくるりと踵を返す。花を活けるのだろう。
そんな些細な出来事、日常のほんのひとつ。
贈り主知らずの花から数日が経った。司書がその腕に抱いているものは本が数冊、業務に必要な物だろう。今日は後ろ手ではなく扉と向き合いそれを閉めた彼女は部屋の中へと向けて振り返る、どきりとした。彼女の眼差しの先、そこに見知らぬ男がいたからだ。今日も今日とて開け放たれていたらしい窓から舞い込む風、それが男の髪先を撫でる。差し込む陽光に銀糸の髪が僅かに眩く見えて司書は目を細めた、男が腰掛けているのがデスクであることなどを訝しんでいる様子にも思えたが。
男は右手を軽く上げ、左手の平を突いている頬その唇の端をちょいと持ち上げて笑む。
「コンニチハ、ワタシの名前は小泉八雲。お忙しそうデスね、司書殿」
低い、それで落ち着いたその声色が彼女の鼓膜を震わせた。彼女は数秒の遅れでどうやら思い当たったようだ、今朝の有魂書への潜書で迎えた文豪その人であるのだと。自身がその場に立ち会えていないことに彼女は些かばつが悪いといった表情を浮かべたが彼はそのようなことどうとも思っていないのか、ただにこにこと笑みを浮かべているだけだ。そうしてひょいと卓上より降り、彼女の為にと司書椅子を引く。促されたままに彼女は歩みその椅子へと座る。
「えっと、小泉先生」
「フム、少し堅苦しいデス。ワタシのことは気軽に八雲、と呼んでくだすってよろしいのことデスよ!」
「で、ではすみません八雲先生、私あまり文学に詳しくなくて……でも、確か、此方の本は八雲先生の著作でしたよね?」
「怪談、デスね。確かにそれの著者は小泉八雲デス!」
彼の指先がその本のページをぺらぺらと遊ぶ。特殊侵蝕者、それらの紙面に並ぶ文字はそこいらの本となんとも違わない。けれど、本の中に広がる世界は異なるもので、危険である。卓上に無造作に置いている彼女のその本の扱いが伴っていないのは、どうにも擁護できないものであるが。
「司書殿はこわーいお話は好みマスか? とっておきの怪談を用意しマスよ! 是非ともご静聴願いマス」
「えっと、はい、よろしくお願いします?」
「フフ、意表を突くのが怪談のキホンなので、楽しみにしていてクダサイね」
楽しげに声色彼はそう言い、とんとんと指先跳ねた本の表紙が音立てた。彼自身がその瞬間が楽しみで仕方ないといった様子でその足取りは弾んでいるものように思える、花瓶に活けられた花を覗き込んでいるその口元は笑んでいる。
幾分の会話の途中に響くはコンコンっ、と。それはノックの音だ。
「司書さん帰ってきてるの? 今朝の潜書できた人連れてきたよ! 先に館内を案内してたから遅くなっちゃった」
扉一枚越しに聞こえるその幼い声は南吉のもので、彼女は彼が口にしたその言葉に心臓を大きく跳ねさせた。今朝のそれで迎えた文豪が南吉の側に、その扉の向こう側にいるのであれば、今こうして話している彼はいったい何者なのか。小泉八雲、その人ではないのか。
ガタリっ、と椅子の脚が鳴いた。飛び退くように彼女が距離を取った為に。
「そう怯えられると悲しいデスね……、ワタシがアナタに何か危害を与えマシタか? いいえ、そのようなことするはずがありマセン。そうデショウ?」
八雲――名乗った通りのその人であれば――は悲しそうに眉尻を下げてそう言う。司書と顔を見合わせ、そうしてふいと流された彼の視線はどうやら花瓶などに、その活けられた花などに向いていたりして。濃淡の桃、白、その色の花が素知らぬ顔で窓から入り込んだ風にゆらゆらりと揺れている。
「あなたは、」
言葉を紡ぐ彼女を遮るように強い風が部屋へと招かれたようだ。思わずその瞼を閉じた彼女、その耳には風に煽られる本のページの音がした。ばさばさと。
彼女が瞼を閉じていたのなど数秒のことだろう、けれど光景を再びとした時に部屋の中に眼差しを向けていた彼はもう何処にもいないもので。ただやってきた静寂を追うようにぱたりとした音、本がページの開きを終えたその音。
「司書さん、どうかしたの?」
扉を開き顔を覗かせた南吉が聞く、彼女は暫し呆然とした後に声を思い出したように呟きめいて言った。
「っぁ、たぶん、いわゆる、異常事態です……」
南吉と来たばかりの乱歩は異常事態と言うわりにただ呆気に取られているばかりの様子の司書に互いに顔を見合わせるのであった。
花瓶に活けた花がしおれてしまったその折であった、その悪戯っぽくも見える笑みが彼女の眼差しの先に在ったのは。
八雲、と名乗った彼はまるで初めて顔を見合わせたその時を再現するかのように司書机へと腰掛け同じ体勢で彼女が司書室へと帰ってくるのを待っていたようだ。少しばかり違う光景は、鮮やかな花の色合い在るのが花瓶ではなく彼が携えていたことだろうか。花が眩しいのではないが彼女はぱちぱちとした瞬きを繰り返してから、視線泳がせ、それでも彼へと眼差しを向けて言葉を紡ぐ。
「あの、普通、あのような出来事の後って、暫く現れないものではないですか……?」
「そうデショウか? そうにも激烈な別れをした覚えはないものデスがね」
「あなた、危険な不審人物ですよ……」
「ナルホド! しかしそれにしては落ち着いていマスね、アナタだけではありマセンよ。館内が、デス。どうにもワタシはこわーい人物指定を受けているはずであるのに」
あの日に同じにひょいと卓上より降り、彼は司書椅子を引く。そうして彼女もまた座る。
「それはたぶん私があまり騒がなかったからかと……いえ、それはいいんですけど、何故また……」
「花を持ってきマシタ、そろそろ萎れてしまう頃合いかと」
彼女の視界の後ろから差し出される花は桃の花、ハナミズキ。花の贈り主は彼だったのかと彼女は少しばかり驚き唇に隙間を空ける。
「司書殿は花の言葉にお詳しくはないのデショウか? これが桃の花で此方はハナミズキであることは分かりマスか?」
「花言葉、ですか……詳しくないというか、知らないです殆ど。花の種類は分かりましたけど」
「フム、……にしてもアナタ些か危機感が足りていないのではないデショウか、ね?」
後背から花を差し出すままに、彼と彼女の距離は近しいものだ。一見、彼が彼女に後背から覆い被さっているようにも見える。少し身じろいだ彼女に、互いの装いが触れて僅かな衣擦れの音が響いたような気も。
「っ危害を与えるはずがないって言ったのは、あなたです」
彼女には窺えないものであったが、彼はきょとんとした表情を数秒に浮かべた。
「覚えていてくれたのデスね、初めて言葉を交わした日のことを。とても、嬉しいことデス……」
それで至極恐悦と喜ぶその表情も彼女には窺えないもの。
身動ぎに僅かぎしりと鳴いた椅子であったが、二人の体勢は変わらぬまま。顔を合わせぬままに様子を窺っていた司書であったがどうにも彼が退くつもりがないことを察し、仕方ないとそのままに唇を開いた。
「あなたは、誰なのですか」
空気が微かに揺れたのは後方の彼が笑み声を唇より漏らした為に。
「八雲と、呼んでクダサイ」
「八雲先生、ではないでしょう」
「たぶんそうでしょうね、しかし呼ぶなら八雲デスよ」
謎掛けなのだろうか、彼の言葉を聞きながら考えてはみても答えなど分からず、それで泳がせた彼女の眼差しは卓上の片隅に在るその白い本へと辿り着く。
「特殊侵蝕書の中に住んでいる、ん、ですか」
「知っているのでしょう、既に。ワタシも、何人かがもう出入りした後だと知っていマスよ勿論。彼らとは顔先も合わせ話しをした仲デスからね!」
確かにその通り、八雲と名乗る彼が司書室へと現れた後ではあるが怪談という題名が綴られたその特殊侵蝕書への潜書は既に行われた後である。その本の実たるところ、多くは未だ解明されていないことであるが。
「あなたのことが、知りたいです」
「なんとも蠱惑的な響きデスねぇ。けれどもワタシ自身、己が何者であるかなど、口にできないもので」
特殊侵蝕書の中に在る者から直接聞けるのであればこれを逃す手はないと問うてみたものの、返事の声音は心底彼自身分からないといった感情を含んでいる。
「だから、八雲と呼んでクダサイ司書殿。誰しも、自身が何者であるか分からないなど恐ろしいことこの上ないことデショウ?」
囁かれる言葉に僅かどきりとしながら、思わず自然な応じのように彼女は唇からぽろりと言葉を零した。
「八雲、さん」
「はい、八雲デス」
彼の声音はとても嬉々としている。
「……少し、圧迫感があります」
「オヤマァ、名残惜しいのことデスが仕方ありマセンね。それにどうにも逢瀬の時間が短いものデス、誰かが此方へと参っておりマスね」
背を伸ばし、体勢を戻した司書は彼の言葉に視線を扉の方へと向けた。彼女には足音のひとつもまだ聞こえてこないものであったけれど、彼の言う通りそうしないうちに誰かがやってくるのだろう。
どうしたものかと思う彼女の唇に不意に触れるは花だ、それは濃い桃色の。
「また、アナタに会いにきますね司書殿。自身のことが朧気であろうと、そればかりは分かりきったことデスから」
悪意の無い、いっそ無邪気にも思える笑み。互いの指先が触れ合うことはなかったが手渡された花を手に司書はどうにも彼と別れる時は自身呆気に取られてばかりだと思う。
瞬きの合間にその姿はどこにもないもので、ただ名残のように揺れた特殊侵蝕書の表紙を彼女は数秒の後に撫でた。
「不思議なひと……」
落ち着いた彼女の声が穏やかな午後にただ霞んでいくばかりだ。
これはとある日、司書の指先は本棚から一冊の本を抜き出す。彼女は徐に右を左を見、そうして後方も確認してからぺらりと表紙を捲った。タイトルは花言葉一覧であるから、疚しいことなど何もない。けれどたった一人その場にいたら恥ずかしい思いをすることもある。桃の花、そうしてハナミズキのページその花言葉を目にした彼女はいやまさかと思いながらもその頬を紅潮と色づかせた。ギリシャのお人であるから、きっと、きっと軽口めいたそれなのであろうと首を振る。小泉八雲その人そのものでないから生まれは確かと言えないが、けれど知ってしまったそれはどうにも彼女の心中でこそばゆく揺れるようだ。
私は貴女の虜、私の想いを受けてください、だなんて。
言葉に違えず、八雲は再びと司書に会いに来ていた。二種類の花を確かと手に。
用紙に万年筆を走らせていた、顔先を向けていたそれを上げたら視界ににこにこと笑む八雲がいたのには彼女も驚いて小さな悲鳴を上げたことだ。彼女を驚かせた本人といえば「司書殿は研究熱心なのデスね」などと穏やかに言うだけであったが。
「どうぞワタシのことは気にせず研究の続きをしてクダサイ、ワタシはどうともしておりマスので」
「それはずっと見ているということですか……とても、気になるのですけど」
「気にせずに」
暫し互いに顔を見合わせ、零すように笑ったのは殆ど同じに。流石にこの距離でずっと見ているのはよしてやろうと思ったのか、八雲は窓際に歩み枠へと寄りかかるようにした。陽光が眩しいのか仄かに右眼は細められる。
視線を感じるそれは仕方ないと、司書の持つ万年筆は再び紙の上に走り出す。時折ちらりと眼差しだけ向けてみては、穏やかな笑みを携えながら此方を見ている八雲と目が合い慌てて視線落としたり、窓の外の景色へと眼差しを向けているらしい横顔が視線の先に在ったり。前髪のかかる眼帯で目元は窺えないけれど、口元の笑みに彼の感情を察してみたり。
「……そういえば、花言葉は調べたりなどしマシタかな?」
彼の声音は静かに部屋に。響きはしないが万年筆の先は僅かにカリっと紙を引っ掻いた、彼女の些細な動揺。
「……いいえ、そういえば調べてないです」
「そうですか。思えば、司書殿の好きな花を聞いておりませんでした! 是非にお聞かせくださいマセンか、そちらが片付いてから」
終えたらお話しをしマショウ、それまでお行儀良く待っておりマスから。そう、小首傾げて言う彼に揺れる髪先。どうにも銀糸が眩しいからと心中に言い訳慌てた様子で彼女は書類へと向き直るのであった。
「新たな、特殊侵蝕書ですか……」
一人と一匹の眼差しは卓上に置かれた一冊の本に向く、白いそれだ。少し離れた位置に怪談と題されたそれが在ることと先程呟くように言った司書の言葉でそれが新たに持ってこられたものであることが分かった。ネコの丸い目の中に紐結びされた特殊侵蝕書の姿が浮かぶ、一言二言も司書へと言付けられる。扱いには十二分に気を付けるようにとのことであったが、半ば彼女はそれを上の空で聞いていたのかもしれない。
心臓をどきりとさせた司書の眼差しは著作のタイトル、そうして著者名を追っていた。小泉八雲、と。
特殊侵蝕は未だ多くを知り得ていない危険なものである、一度も浄化を終えていないのなら尚のこと。
気の緩みでしかない。椅子に腰掛け指の腹著者名などを撫でながら、そうしていつしか眠りに落ちてしまうなど。
彼女は足下ではなくその手元から這い寄る冷気に気付けないままに、より深い意識の底へと落ちていく。
例えば八雲が目にしたのは、卓上へと半身を預けて寝入っている彼女の姿だ。そうしてその手元の本だ。ヒュッと息を呑んだ音が聞こえた、それは八雲の喉奥から。彼の瞬間の呼吸は酷い冷気をも吸い込んで、それがより彼に事の深刻さを知らせることとなる。彼女の頬はまるで青白くそれは嫌なものに思えた、まるでまるで彼女は眠っているのではなく――。
荒々しく手の平を押し当てるは表題、雪女の文字。八雲が在る光景は、瞬きの合間におどろおどろしく文字が浮かぶ世界になることだ。
その女は司書の上に屈んで、彼女にその息を吹きかけていた、――そして女の息はあかるい白い煙のようであった。
刹那の合間である、常人には何があったかも分からぬような。八雲の影が陽炎を思わせるように揺らめき、そうして確かな意思を以て飛びかかったのは司書へと息を吹きかけるその女へと。歪な音を喉より吐き出しながらその女はまるで何か巨なる獣の爪に引き裂かれたような傷を負って司書より離れた位置に転がった。
とっ、と場の空気に似合わぬような静かな音。司書の側へと移った八雲は触れそうで触れぬ距離に手の平彼女の呼吸を確かめる、仄かな安堵の息が彼の唇より零れる。
「まったく、危機感の足り無さについては口を酸っぱくして教え込んでおくべきデシタ」
彼女に纏わりつくような冷気を忌々しげな表情で手に払いながら、羽織を脱ぎそれで彼女の身体を包む。チッと舌を打った、瞼を閉じたままに血色を悪くした唇を小さく震わせている彼女の姿に。
暗い吹雪の夜風のような、氷塊に幾重に走る亀裂のような音は、司書を己の本の世界へと引きずり込んだその存在の鳴き声だ。背を向けているにも関わらずその後背から放たれる八雲の殺気に身動ぎひとつ取れずただ鳴き声を上げるだけしかできぬその存在の声だ。砂利の音、立ち上がり振り向いた八雲の足下より。女は向けられる視線や殺気に上体を低くするようにしている、臆している。
「この本のタイトルが雪女であるのデスから、アナタはお雪ですね。侵蝕された故であるのデショウが、これは好くはなかった。とても、とても好くなかった」
ぎゃァぎゃァと、鴉の鳴き声がする。或いはその羽ばたきの音も。
「全く知らぬ者同士ではないよしみ、とは言えマセンね。ンフフ……彼女が誰のモノか知っての狼藉か貴様」
女の断末魔は、文字がうねる曇天なる空に響くことだ。
一定の間隔で感ずる心地好いそれに仄かに浮かんだ意識をまた眠りへと戻しそうであった、けれど司書は自身の側に在る存在が誰のものであるか知って呟く。
「や、くもさん……」
「はい、八雲デス」
呼べば、穏やかな声音で返事のそれが彼女へと返ってきた。八雲に背負われた司書は彼のその背に頬を擦りつけるようにして身じろいだ、冷気を払ったとしても寒いのだろう。
「帰りたいデショウ? 帰りましょう、スタコラと帰ってしまいましょう」
はい、と返事をできたのか否か彼女自身分からぬうちにまた眠りへと。どうにも、彼の体温が心地好いもので。
次に八雲と司書が在ったのは間違いなく普段の光景だ、彼女は眠っているが。司書室の奥へと続くその扉の向こうが彼女の寝室であることを知っていた八雲はその扉を開き、彼女を抱いたままに足を運ぶ。ベッドへと彼女の身体を預ける、傍らに手の平突いて寝顔を覗き込めばその頬に普段の赤味が戻りつつあることに心底ほっとした。僅かにぎしりとベッドを軋ませた手の平を戻そうと、彼女の側から離れようとした八雲は彼女の声を、自身を呼ぶその声を聴いた。何ですか、と返事をしたもののそれは寝言だったようで彼女の声音は続きを紡がない。
「司書殿」
自身もまた彼女の声音と同じように小さな声で紡いでみた八雲は少しばかり後悔した。離れようとした手の平がどうにもその場を離れがたい。寧ろ、ただ側に手の平を突いて顔色を覗き込んでいただけのそれは今は、覆い被さっているようなものだ。彼女を確かに己の下にしている。触れあいそうだが触れあうことない距離を保ち、八雲は彼女の頬を手の甲に撫ぜるように。
「これは、据え膳というやつデスかな……」
普段の色合いの唇、眼差し寝息を零すそこより仄かに覗く隙間と紅い舌が悩ましい。身体の具合が悪くはないかと確認嘯いて胸元の穏やかな上下をじぃと見る、衣服の乱れがなくてよかった。八雲の理性はどうにか踏み留まっている。
たぶん、高揚としているのは、自身の怪異たる力を露わにした後だから。差し込む月明かりで浮かぶ自身の影がどうにも戦慄いている。恐怖、緊張、寒さ、そのどれでもないが。鴉の翼などを出して騒いでいる影は「少しばかり褒美を頂戴しても問題など無いのではないか」などと囁いているようだ。確かに、と頷きそうになった。が、八雲は首を振りいいやいいやと。危害を与えぬと言ったそれが偽りとなってしまう。
ん、と悩ましい音を零されるといっそ気が狂いそうであった。少しだけ、少しだけと思いながら、八雲の指の腹が彼女の唇に仄かに触れる。そのやわさ、危うさにぞくぞくを背筋を逆さに駆けていくものがある。
「さむ、い……」
どきりとした、言えば八雲の息はその折詰まった。思い出したのは雪の妖怪の吐息、吹雪で。触れてはならない、彼女は決して自身が触れてはならぬもの。そうであると、触れた八雲の指先は離れ、そうしてぎゅっと拳握り込まれた。わなわなと震えているのは今は、彼女ではなく彼の唇であった。
翌日のことである。時は黄昏時というものだ、夕陽に伸びる家具の影に人型の影が瞬きの合間に増えたことに司書は勢いに視線を上げ、その先に八雲の存在を知った。彼は少し気まずそうにしている。司書は、自身が寝室へ運び込まれてからあったことなど知らない。寧ろ帰路の途中から意識は眠りの淵にあったのだから、彼女にしてみれば感謝の言葉を紡ぐことができていなかったのに早く彼に会いたかったばかりである。
司書の伝える感謝のそれに八雲はえぇ、だとかはい……、だとか何とも言えない声色で返事する。
「八雲さん、どうかしたのですか?」
「……いいえ、何とも。ァア、そうです、少しばかりお預かりしておきマシタよ。今度は充分に注意し管理してクダサイね」
どうしたのだろうと司書は八雲の顔を覗き込もうとするが、彼はそれを顔先を逸らすようにして避けた。また、互いの合間に本をかざしたそれは壁を作ったようにも思える。
「雪女……」
「危機感を、持ってクダサイね」
八雲より特殊侵蝕書を受け取った司書はひとつ頷いてからそれをデスクの引き出しへとしまい鍵をかけた。どうやら特別なまじないが施されているようだ。
「あの八雲さん、」
「ワタシは、もう此方には参りマセン」
自身の言葉を遮るような八雲の言葉を彼女は数秒理解できなかった。何度と瞬き、それで理解しても音が喉に張り付いたようなもので言葉を紡ぐのは難しい。
「そもそも、ワタシが此方の軸に在るというのは好くないものデスからね。ワタシはそう、特殊侵蝕書、怪談のそれに巣くう存在だとしたところデス」
ですからそう、お別れです司書殿。そう言って八雲は後退る、司書から距離を取る。彼女は彼のその後退る素振りにハッとなり咄嗟手を伸ばした、彼の手を取ろうと。
「Don't touch me!」
室内に鋭く響いたのは八雲の声だ、彼の眼差しは険しい。
「だから、アナタは、危機感を持ってくださいと……!」
「でも八雲さん、だって……私はいやです、そんな、突然、そんな……」
制止の声で八雲に触れることなかった司書の手は指先は、上手く言葉を紡げないでいる彼女自身の口元で震えている。その肩も心許なく震えているのを八雲は眼差し、彼女を震えさせているのは己だ、間違いなく自身だと胸中に呟きながら顔を背ける。知っていてもそのようなものを見ていたくはないと。
「……ワタシは、アナタを攫った怪異に近しい存在ですよ。此所に在る者達よりそちらに近い。朧気な意識でも覚えておいででないデスか、雪女の息の冷たさその危うさを。あの白い煙めいたその息の吹きかけを目にした折、生きた心地がしませんデシタ。アナタが、ワタシに笑みかけることなどもう永くにないことになると……」
「でも、」
「司書殿、ワタシはアナタを殺してしまう存在なのデス。アナタに危害を与えないと言いましたが、側に在るだけでワタシは危機そのものだ。ですから、ワタシはもうアナタには会わない、会ってはいけないのデスよ。ワタシはもう、此所にいては」
「八雲さんっ!」
八雲は勢いに少しばかり後方へと蹈鞴を踏んだ。自身へと飛び込むように抱きつき、腕をしっかりと回して離すものかとした彼女に驚く、詰まった息を吐き出すようにしてその行為を咎める。
「っ離しなさい! アナタ人の話を聞いて……!」
「っなんともないです! 私なんともないです! それに八雲さんは私を背負ったじゃありませんか!」
「っそれは、別に確かと肌が触れたわけではありマセン!」
その言葉に自身を引き剥がそうとする八雲の腕に抱きつき直した司書は逃げる彼の手を自身の手に握った。
「なにもっ、ないです! あるはずがありませんっ! だから、だから……!」
「離しなさい!」
振り解こうとした、けれどそれを察して彼女はより離れるものかと強く抱きつく。八雲はその姿を半ば開いた瞳孔でまじましと見る。部屋には声を荒げた後の二人の呼吸の音が響く。十秒ほどでも、長く感じるものだ。
「…………本当に、何も、ないのデスか」
酷く心許ない響きで八雲の声が空気へと混じる。
「何も、ないです」
「本当に」
「はい。……ぁ、でも、少し、心臓はやかましいです。でもこれは、危害でもなんでもないです。……、少し、ではないです。でも、ただ、あなたに触れていることにどきどきしているだけです、それだけです」
「っ本当に、なんともないのですか……?」
目眩はしませんか、血の気は引いておりませんか、身が引き裂かれる感覚などありませんか。
「ないです、どれも。……八雲さんが何処かへ行ってもう会えないとなると、身が引き裂かれる思いになりますけどね」
八雲は彼女の言葉を長い時間をかけて受け入れようとしているようであった。
それで、彼女に縋り付かれている方とは反対の腕を徐に上げる。司書は離されるものかと八雲の片腕によりしがみついたが、八雲のその片手は彼女を引き剥がすものではなく、彼女へと触れる為に動かされたものであった。
八雲の手の平が彼女の頬へ触れる、それは恐々と。そっと触れた数秒、確かめるように親指の腹が彼女の肌を撫でる。息が吐き出された、八雲の唇から。
「ワタシは、ずっとアナタに触れたかった。アナタと顔を見合わせるよりずっと前から、ワタシはワタシの世界からアナタを見ておりマシタ……ずっと、恋うておりマシタ……」
するりと、もう一度もう一度と八雲は彼女の頬のさわりを知る。
「花に言葉を乗せて贈ってみたり、それだけでは我慢ならずに姿を晒してしまったり……。アナタに触れると、こんなにも幸福感に包まれるのですね、初めて知ったことデス。とても、幸せです。触れることができるということは」
「……もっと、触れてくれても、いいんですよ」
「おやそれは、誘われているのデスかな?」
「その、つもりです」
「フゥム……アナタの唇はどうにも、悩ましいことデス」
頬に触れていた指先は仄かに彼女の唇を撫でた。あの夜、一度触れそれでも指先離した彼女の唇。今はもう許されているのだと、眼差しにじぃと見た。
八雲の視線に司書は彼の腕に縋る力を緩める、彼はそれを眼差しで笑み、解放された手でも彼女へと触れた。八雲の指先は彼女の顔先を僅かに上向かせ、彼の背は屈められる。八雲の髪がさらりと彼女に触れる、触れたのはそれだけではなく互いの。そっと触れあわせたそれに彼女が吐息を唇から零す、八雲はその吐息さえ求めるように唇を離さず寧ろその口付けを深める。
彼の吐息は舌は熱い、と彼女は感じた。或いは、それは自身の。熱がどちらのものかなどわからなかった。
「……司書殿は、満ちておりマスか」
唇を離しそれでも互いの吐息が唇にかかる距離で八雲は囁く。
「いいえ……もっと、してほしいです。あなたの、思うままに」
「フム、それはどういった意味デショウか? フフ……冗談ですよ。ですが知りマセンよ、満ち足りるにワタシはずいぶんと乞う時間が長かったものですから」
そうして、八雲の為す彼女との新しい常日頃が紡がれていくのだろう。