幸福よあれ若人よ


 食堂の壁掛け時計、それに目を向けると針はもうすぐ十一時を知らせようとしていた。ゆっくりとした瞬きでそれを見た後、窓硝子から差し込む陽の光をなんとなくに見て、それから食堂の入り口へと視線を向けてしまう。じっと見ていても誰かの姿が覗くことはなくて、どうしたものかと思ってしまう。誰か、というよりは自分はある人の姿を待っているのだろう。八雲先生、その人の姿を。朝食は要らなかったのだろうか、姿を現さないのも珍しい、いやこれが初めてなんじゃないだろうかと。
 もしかして具合が悪いのではないだろうか、風邪でもひかれたのだろうか。待っているだけで思い至らなかったと気付けば立っていただけの脚が慌てた。そうして窺いに行かなければと数度の足音を聞かせた私の足は少しの歩みだけでまた止まる。ほっとした、八雲先生の姿が視界に現れたからだ。
「おはようございマス、司書殿……」
 けれどもほっとしたのも束の間だ、どうやら僅か前に思い描いたことはその通りのようで。いつもはしゃんと立っているその背をほんの少し曲げて、八雲先生は自身のこめかみに指先を当てるようにして仄かに呻くような声を漏らしたのだから。それにどうみても顔色が悪かった。
「おはようございます、体調がよくないんですか?」
「体調……たぶんよろしくはないデス」
「熱はどうですか? お薬お持ちしますか?」
「あっいいえ、違うのデス。病ではありマセン……すみません、もしかしたらにおいが……」
「におい?」
 少しふらつきを見せる八雲先生に倒れられては大変だと体調を聞きながら側へ寄るとそんなことを言われる。何のことだろうと思った私の鼻先を撫でたふんわりとした香りに気付いた、お酒の香りだ。八雲先生はお酒の香りを仄かに纏いなんとも困ったという表情で唇を開く。
「アルコールのにおいがするデショウ。昨夜のことです、乱歩サンのお話を聞いていマシタ、お酒を嗜みながら。……フフ、怪談、トリック、素晴らしい時間を過ごしたことデス」
 話に華を咲かせていたそれを思い描いているのだろう、八雲先生はとても嬉しそうに言う。笑みの形の頬だ、最後にくっつくようにひくりとしたけれど。
「けれど少し飲み過ぎたんですね、とても顔色が悪いですよ」
「面目ないのことデス……」
 乱歩先生が体調が悪いといって朝食を辞退されたのもつまりそういうことだったのだろう、同室の方から聞いたそれは理由までくっついていなかった。求められた薬箱を渡したことを思い出す。
「座っててください、お食事お持ちしますから」
「いえ、いえ、遠慮しようと思い、断りを入れようと思い来たのデス。……申し訳無いのデスが」
「……あー、食欲が無い?」
「あるかどうかも分かりマセン……」
 彼の指先がとんとんと自身のこめかみを軽く叩くのを見ながら考える、今日の朝食は確か……と。
「うーん……、やはり座ってお待ちになってください。無理そうなら残していただいて大丈夫なので」
 そう声をかけ、分かりましたとの返事を返してくる八雲先生を後に私はキッチンへと向かった。
 冷めたものは手早く温めて、よそっていく。いい香りを孕んだ湯気を上げるおみそ汁を椀に注いで、少量ずつのおかずといつもよりは小さなおにぎりが乗ったお皿を盆へ。それで、待っているであろう八雲先生の元へと帰る。
「お待たせしました」
「いいえ、ありがとうございマス」
「無理そうなら本当に残してくださって大丈夫ですからね。けれどできたら少しでも食べてください、その方がいいですよ二日酔いに。その、よかったらおみそ汁は飲んでくださいね」
「いただきますよ、司書殿のごはん美味しそうデス……美味しいデスからね」
 にっこりと笑みながら私から盆を受け取った八雲先生、私は対面の席へと腰を落ち着かせて彼の顔色の悪さを窺う。たまたまだけれど今日のおみそ汁がそれでよかった、だなんて。
「ン、美味しいデスとても。おみそ汁、これは……」
「しじみのおみそ汁です、二日酔いにいいそうですよ」
「なるほど、ですから」
「ええ、できたらおみそ汁を飲んでほしくて」
 偶然なんですけどね、と言いながら何とは無しに自分の指先で前髪を梳いた。八雲先生が此方に向ける優しい表情がどうにも気恥ずかしいから。
「少し、貴重なものを見れたようで嬉しいです。八雲先生、お酒強いのかと思っていましたから」
 ギリシャ生まれのそれで、何となくそう思っていた。弱いわけではなさそうだけれど、二日酔いにもなるのだなぁと。
「……不甲斐ないのことデス」
「ぁあ、いいえ、ちが、……可愛いなぁと思ってしまっただけです」
 肩を落とすような声色に俯かせていた顔を慌てて上げて言うと八雲先生は半ばきょとんとしたような顔で、それで思わずもう一度可愛いと呟くように言ってしまった。
「司書殿もお人が悪い……。おみそ汁とても美味しいデス、とても」
「それはよかったです」
 静かな食堂に仄かなかちゃかちゃとした食事の音が響いている、外の景色に目を向けてみたり椀を傾ける八雲先生の口元を見てみたり。
「……アナタの作ったみそ汁を毎日飲みたい。ワタシの為だけに作ったものを」
 言葉を失った、直前まで口を開いていたわけじゃあないけれど。
「というプロポーズがあると聞いたことがありマス」
 数秒の後に八雲先生が言ったその言葉に、勘違いだったんだと視線を泳がせることになる。そんな、突然彼がそんなことを私に言うわけがないじゃないか。少し期待してしまっただけ、少し。……だいぶ。
「ぁ、え、ええ、ありますね! よくご存じですね……」
「素敵な言い回しデスねぇ」
「そう、ですね」
 ごちそうさまでした、との声に見ると朝食は全て平らげられたようで。大丈夫なのかなと視線を向けると私の疑問に答えるように、美味しかったですよと微笑みと一緒に言葉が返された。
「あっ、私が片付けますよ」
「いえいえワタシが自分で。だいぶ、楽になりマシタから」
 盆を持ち席を立ったその姿に慌てて声をかける、確かに顔色はマシになったみたいだ。
「それは、よかったです」
 ほっとして言う。ぴたりと動きを止めた八雲先生。どうしたんだろうと思っていると、彼は盆をテーブルへと置き直した。それですたすたと此方へと歩み寄ったかと思うと、どうしたんですかと聞いてもいいえいいえと首を振るばかりで。
「お手を失礼しマス、司書殿」
 手? と聞き返す前に私の左手は八雲先生の手に取られた。ひっ、と悲鳴にも似た驚きの声を上げそうになった。あまりにも突然だ。それで、いったいどうしたのかと視線を八雲先生へと向けるとその表情があまりにも真剣で私の心臓はまるで誰かに握り込まれたようなものだ。
 八雲先生の指の腹が私の薬指を撫でた、全ての神経がそこにあって、体の熱全てがそこに集まったような感覚を覚える。
「アナタのこの薬指をワタシに頂けマセンか? 結婚を前提にお付き合い願いマス。…… これは、確かにワタシがアナタにむけてのものデスよ司書殿」
「っと、っとと、突然ではありませんか……!」
「オヤそうでしょうか……アピール、足りていませんでしたか?」
 今度こそ私は悲鳴のような声を漏らしてしまっただろう、まさか、八雲先生が私の手を自身の口元へ寄せてそのまま……。
「アナタの時間を頂戴したくなったのデスよ、今まで以上に」
 火傷しそうだと思った、それ程までに彼が触れたところが熱いのだ。
「おみそ汁、美味しかったデスねぇ」
「毎日作ります、……あなたの為に」
 俯きながら小さく返した言葉は返事になるのだろう。赤く染まっているに違いない頬を彼の視線から隠すようにして俯いたまま、八雲先生の穏やかな笑い声を聞いていた。