お慕い申し上げております、司書殿
水面に反射し、揺らいでぽろぽろと崩れて耀くような池に映る陽光。名を知らないが鼻先を近付ければ仄かに甘いような香りを知らせる薄桃色の花。微風に揺られるでなく自身でゆらゆらと尾っぽ揺らして日向ぼっこに興じる三毛猫。心を擽られる眼差しの先は、その一瞬を永久にするかのように四角い小箱に収められる。かしゃりと、音。瞬きも共に。
ぱちりと瞼を瞬かせた紫水晶は八雲の眼。彼がカメラのファインダーから遠ざけた眼は、写真を撮った後も期待に満ちているようだ。虫のさざめきにも似た小さな音が八雲の鼓膜を僅かに震わせる、彼の視線の先に姿をみせたそれがその期待の答え。彼の手の内のそれはポラロイドカメラであった。
写真の極めて端っこを指と指で挟み持つ、それでも大事にそれは大事に。少しずつ、少しずつ眼差しにしていた光景が浮かび上がってくるのに八雲の目は細められる。眼帯の下の左目も心の嬉しさに細められていることだ。口辺などは確かに笑みを浮かべている。
数分で光景を描ききったそれを八雲はじっくりと見て楽しみ、そうして他の写真と共に丁寧に布地で包み懐へ。それで靴裏に草を踏む音をさせて外から内へと戻れば廊下へと彼の足音が仄かに響くことだろう。
次に響いたのはノックの音、それは司書室に。女性の応じの声が静かに部屋から聞こえれば八雲の手はドアノブを回す。勿論、ノックの音を響かせたのは彼だ。
八雲が司書室へと足を踏み入れれば卓上へと向いていた女性の顔先と視線が八雲へと向けられた。
「ご機嫌よう、デス。司書殿」
「ご機嫌よう八雲さん」
特務司書である彼女は言葉の後に微かに口辺をむず痒らせた。あまり言わないような言葉で挨拶を返したからだろう、鸚鵡返しであろうと。
「気に入られましたか?」
言葉にむず痒らせた後の唇で司書は問う、その視線は八雲が携えているカメラを見ていた。そのポラロイドカメラは彼女が贈ったものであったから。
「はい、とても。とても、素敵な贈り物でしたことデス」
つい先程撮り浮かび上がったばかりの写真達を八雲は司書の目前、卓上へと並べ出す。とはいっても彼女が万年筆を走らせていた書類などを避け、邪魔にはならないように。
「素敵デス」
「はい、素敵ですね」
指先で写真の花びらを撫で頬を笑ませる八雲に司書もまた穏やかな声で素敵であると返した。
カメラ自体は八雲が生きた、転生する以前に生きていた時代にも存在していたことだが、その性能は現在のものとは比べ物にはならないことだ。シャッターを下ろし五分もすれば眼差しにしていた光景が浮かび上がるポラロイドカメラは八雲の興味を充分に惹くものであった。映る像も鮮明で、彼自身が知っている写真というものはこんなにも色鮮やかなものではなかったこともあり。
「司書殿、お撮りしてもよいのことデスか?」
「え、何をですか?」
日向に眠る猫の姿を見ていた司書が向けた問いと共に向けた視線は八雲のものと一致する。にっこりと音が聞こえてきそうな笑みで彼は答えを返す。猫の写真を彼女の手へと渡しながら。
「司書殿を、デス。お仕事をなさっている司書殿をお撮りしたいのデス」
「物好きですね……。まぁ、その、……お好きにどうぞ」
「フフ……研究熱心な司書殿、素敵だと思いマァス」
かたりとした小さな音は猫の写真をデスクの引き出しにしまった音で、仄かな音は彼女の指先が万年筆を再びと取った音。くるりと回された万年筆は偏に彼女の照れ隠しなのだろう。くすりとした八雲の笑みにもう一回転したものだ。
時間の流れ、時計の針の音はどこか遠くに。ペン先が仄かに紙を引っ掻くかりりとした音の合間にシャッターの音が響く。二人の耳に煩わしいものではひとっつもないが。
竜胆色の八雲の眼が覗き込んだ四角い世界。自身が綴った文字を読み返す司書の横顔。癖の無い文字に添えられた彼女の指先。頬に落ちた睫毛の影。緩められた唇から仄かに覗いている紅い舌。そよとした風にふわりと膨らんだカーテン、これはもしかしたら八雲の気恥ずかしさ照れ隠し。
ノックの音が響いた、これもまた部屋の外から。今度、八雲は内にいるから彼ではない。司書の応じの声の後に開いた扉の隙間より覗くは青と黒のハーリキンチェック。司書室へ訪れたのは乱歩のようで。
「どうしました乱歩さん」
「おや八雲さんもおりましたか。フム……その、とても言いづらいのですが、……八雲さんの部屋が雨漏りです」
乱歩の孔雀青色の眼差しは司書の傍らにいた八雲へとちらりと向けられた、そうしてその言葉。司書は小首を傾げる、雨漏りとはおかしいなと。
「この建物の設計的におかしいですね、八雲さんのお部屋が雨漏りとはいったい……?」
「すみません、悪戯が過ぎたのです」
ばつが悪いと言った顔で乱歩は言った。それに数秒の後に司書は嗚呼と仄かに呆れた顔で理解する、つまり悪戯が過ぎたのだと。
本人が反省しているようなのでまあ仕方ないと司書は頷く、暫くは、暫くは些細な悪戯も形を潜めることだろうと心中で思いながら。
それで乱歩が司書室から出て行った後であるが、彼女の視線は八雲へと向けられた。雨漏り、をしているのは彼の部屋であるのだから。
「空いていて、直ぐに使える部屋となるとこの隣りですね。お部屋が問題無く使えるようになるまで、よろしいですか八雲さん」
「つまり、司書殿とお隣りさんデスね? とても楽しそうだと思いマス!」
「楽しいことはないと思いますけど、八雲さんが嫌でないならよかったです」
少しの困り眉を緩めて司書はほっとした。彼女のそんな様子にカメラを向けて、ファインダー越しに八雲は笑う。
「遊びにいらしてもよいのことデスよ?」
「遊び……怪談のことですね、きっと」
「ン~妖し、雨漏りの霊のコトお話ししマスよ!」
思わず声に出して笑った彼女にシャッターの音。
司書の自然な笑みが後に写真と浮かび上がることだろう。今は、八雲の竜胆色の目にその笑みが泳いでいることだ。彼の心をさわさわと撫ぜるようにしながら。
そうして、夜。とても静かな夜だ、八雲の耳の裏には彼自身の心臓の音がとくりとくりと響いているような。彼はそんな音を暫くの間天井などを見仰ぎながら聞いている、眠れないので瞼を閉じぬままに。
眠れないのは心音が自身の鼓膜を撫ぜる為か、いいやそれは違った。今もさわさわと撫でているのは、鼓膜ではなく心を撫でているのは日中に眼差しに見た司書、彼女の笑みで。
ぎしりとベッドが軋む。どうにも冴えている目をぱちりぱちりと瞬かせた後、上体を起こした儘に八雲はベッドを抜け出した。数歩を歩きデスクへ、彼が手に取ったのは日中に撮った写真だ。それを持ち踵返せば再びとベッドの軋みの音が部屋に響いた。
一度だけ目元を揉んだ八雲は徐に写真を見始める。庭園の様子を、草花や生き物の様子を。司書の姿も。
「よく、撮れていマス」
司書の浮かべた笑みを眼差しの先に八雲は思わず音が零れたというように呟く。本当によく撮れている、まるで今も目の前に笑んだ彼女が在るようだと。或いは彼女の笑みは自身の網膜に浮かび続けて離れない、忘れられないような。
「…………」
指の腹で撫でた彼女の頬は、あくまで写真であるから肌の滑らかさでも何でもなくて。生き生きとした笑みとは裏腹に無機質なつるりとした触り。あの笑みを浮かべた頬はこのような触りではなくて、きっと指の腹にも心地好いことでしょうと八雲は胸中に。
心地好いだろうけれど、どのような?
その頬に片手を添えて、指の腹で触れたなら。或いは手の甲にすべりと撫で下ろしたなら。どのような触りでどのような心持ちに自身はなることでしょう?
紅い舌を覗かせた唇の写真が眼差しの先に在れば、唇へと触れたそれを想像してしまう。仮定であるとしても、互いの唇同士を戯れさせたとすれば。ふぅと吐息零した、自身のそれにさえ八雲はどきりとした。その悩ましさ。
少しの慌てに写真より顔を上げた八雲だったが、もしかしたらそれが何より彼の心臓を跳ねさせた。壁紙。壁。いいや、彼の眼差しが向いたのはその先、隣りの部屋に在るだろう彼女の姿。
「眠って、いるのでショウか……」
勿論のこと、眠っていることだろう。草木も眠るとは今の時刻のことで。
それで八雲が司書の眠っている姿を思い浮かべてしまったのは仕方のないことだ。薄らと隙間を拵えているかもしれない上唇と下唇からは穏やかな寝息がシーツへと零れているのか。明かりを完全に消しているならそれも睫毛の影も窺えないことだ、いや、カーテンを引いていないならひっそりと忍び込んだ月明かりに浮かび上がっているかもしれない。それは悩ましく。此方の心持ちの欠片も知らずに、静かな寝息の合間に微かな声を漏らすのかもしれない。
彼女は、どのように眠っているのだろうか。
八雲がシーツへと突いた手、その指先は仄かに衣擦れの音、そうしてシーツへのしわを生み出す。このような想像をするものではありませんと首を振って、心を悩ませる想像を止めたつもりだ。
日本の方は年齢よりも見目が幼い、と八雲は思う。彼女も、また。年相応に落ち着いた物腰である、童のような天真爛漫というものでもない。けれど、ふとした時に零される自然な表情は幼さを孕んでいる。今日見た笑みもそうだ、どこか幼かった。けれどその幼さは嫌なものではなくて、好ましくて。いいや、いいや、好ましいのは幼さだとかではなくてきっと、彼女が笑みを浮かべたということで。そうしてのその笑みの先にいたのが自身だということで。
彼女に好い人、はいないはずだ。そんな存在を八雲は聞いたこともないし知らなかった。けれど、もしいたとしたら、どのような表情を向けるのだろうか。向けたのだろうか。
少しじくじくとした、臓腑の辺りが。悋気の念を孕む、というものだとどこか他人事のように八雲は感ずる。いるかも分からぬ相手への嫉妬をやり過ごそうと、他人事に。
「お慕い、申し上げて、おり、ます……」
途切れ途切れに紡いだ感情は、疾うに孕んでいた感情は響きだけは上等だ。
既に抱いていたはずの感情は、実に言霊とすればどうしてこうも無性にどうしようもなく溢れてしまうのか。身を屈め思いの言葉とせず、二度目はできずに、ただただ熱孕んだ空気の塊として自身の唇を掠めさせては性急に短く零すことをせざるを得ない。
どうにも苦しい、息苦しく、胸が苦しく。身を屈めてなんかいるから苦しくて堪らないのだと背筋を正してみても楽になるはずも。
壁一枚越しに眼差しなどを向けてなどして。向ける感情の遮りは大凡壁一枚程度の遮りなどではなくて。
身を屈めなどしたが八雲は手の内の写真の一枚も握り潰すことなく、寧ろしわのひとつも拵えておらず。夜に独り勝手に気落ちしてなどしてと眼差しを落とし、それでも眼差しの先に浮かんでいる彼女の笑みに少しずつ心を落ち着かせていく。耳裏に響く己の心臓の音に合わせるようにしながら彼女の笑みを見ていて、そうして手引かれるように自身の唇も彼女と同じように笑ませて。
大丈夫だ、ほら、自身の唇は彼女と同じような笑みを浮かべている。
同じ、と思いそうして唇、と思い浮かべた八雲は写真を支える手の指先を仄かにぴくりと小跳ねさせた。思考に過ぎったそれにどきりどきりと、心臓の脈打ちは少しずつ早まるようで。部屋の四隅のぼんやりとした薄影に視線を泳がせて、それでもどうしても辿り着く戻ってしまうのは彼女の笑みが浮かんだ写真で。竜胆色にじぃと見つめられている司書の唇は笑みのそれ、八雲の唇は思考に仄か震えていた。
独り、独り、誰も見てやしない。月でさえ覗き込めやしない。
少し震える指先でそれでも確かと支えた写真、彼女の笑み。竜胆色は僅かに浮いた涙に潤んでさえいる、水面に泳ぐ彼女の姿は徐々にいっぱいになりそうして――。
八雲は自身の身体がカッと熱を生じたような感覚を覚えた、その閉じた瞼の下で。現実、この場に彼女などいやしないが目の前に、言葉通りほんの目と鼻の先に彼女がいるような錯覚。それで互いの唇と唇を戯れさせているような、それは視界を閉ざしていたとしてもくらりくらりと目眩を覚える。
嗚呼、熱を孕んでいる。
名残惜しく唇を離し、互いの顔先を離し、瞼の裏での錯覚に別れを。
急速に迫ってきた現実に八雲は息吐く、随分と熱を孕んでいることを自覚しながら。唇を交わした空想で恋の心を浮かせるのは仕方ない、もうひとつも仕方ないとはしても逃がしてしまいたくもあった。
「男のサガ、というやつでショウかね……」
罪悪感がまったくないというわけではなかったが、それでもひとつの罪に口付けた後だったからかシーツの上へと司書の映った写真を預けた八雲は迷いなく手早く夜衣を寛げてゆく。熱を孕んでいたのは彼の心に体にそうして雄ともいえる性器で。随分と熱を上げたことだ、いきり勃っていると自身の頬に睫毛の影を落とすようにして八雲は己を見下ろす。ちらりと写真の彼女の笑みへと眼差しを向け、まるで本当に彼女の傍ら自身の雄を曝け出したかのように思えてぞくりと背筋を震えさせた。
「っ、……」
写真を包んでいた布地を折り、唇で咥える。何処ともなく一度視線を泳がせてから、それで彼女へと視線戻してから伸ばした手は自身へと。雄は熱を集めているというのに八雲の指先は酷く冷えていた。緊張なのかもしれない、彼女へ思いを抱いてはいてもその思いで自身の肉慾を慰めた夜など今までなかったのだから。
「ふ、ゥ、っ……!」
たった一度根元から先へと向けて擦り上げただけで堪え難い悦が八雲の背を逆さに駆けた。布地を食んでいなかったら声を響かせていたかもしれない、つつぅと彼の背を一筋の汗が流れる。
恐々とした手付きで自身の肌を撫でる行為を始める、まるでそれを初めてする年頃の。好いた相手を思い浮かべ思いを向けながら耽る行為の罪深さといったら。
「ッ、っふ、……ぅっ……!」
眉を寄せ今にも泣きそうな顔、シーツへと零れたものはさらりとはせずぽったりと。それは八雲の涙などではなく、唇の隙間から覗く彼女の紅い舌への焦がれ、びくりびくりと震える筋を知らん振りで擦り上げた為の先走り。雄を扱き上げる程にびりびりと脳が痺れる感覚、独り熱を重ね上げていけば思い浮かべようとせずとも脳裏には恋しい相手が浮かぶもの。その姿が一度と目にしたことはない淫靡艶やかなものでも、ものだからこそ、八雲息吐く部屋に響く水音はよりと響きを聞かせる。
八雲さん、と自身を呼ぶ彼女の声が思い出されればそれを記憶していた耳が耳朶が熱を持っているかのように思える。
夢、幻に呼んだのはヘルンと。彼女の声色が自身をヘルンと呼んだと彼は、描かれた空想の前に理性を霞みに遮らせて手を滑らせた。自慰行為という意味でも、意図せずという意味でも。
「アっ、ッッ!」
少しだけ伸びていたらしい爪先が引っ掻いた、鈴口を。びくりっと体を跳ね上げそうになり、寸に八雲は身を屈める。詰めた息と握り込んだそれで耐え吐精は免れたが、男性器は痛ましいぐらいに張りつめびくびくと震える筋を浮かび上がらせていた。
はぁはぁと溺れ喘ぐような呼吸を繰り返す八雲の額から汗の粒が垂れ落ちる、不意打ちに開いた口、シーツへと落とした布地に追い縋ったような汗はそれへと滲んだ。
「はッ、……司書、殿……」
何を咥えるでもない八雲の唇は彼も知らずと音を紡いだ。一度零せば、堰を切ったように。
「司書殿っ、ァっ! 司書殿ッ……!」
お慕い申し上げています、お慕い申し上げていますとうわ言のように繰り返しながら自らの肉慾を慰める彼の手の動きに迷いはない。或いはその空想に。眉を寄せる潤み目の八雲には彼自身に抱かれ揺さぶられる愛しい人の姿でさえ浮かんでいるもので。彼が呼び縋れば彼女も応じ、寧ろ彼女から名を呼び縋られて。
「ぅッッ!」
彼女の声音に求められるそれに、八雲は喉元に酸素を詰まらせた。ぎしりと鳴いたベッドに、身を屈めた儘にぎちと背骨を軋ませる八雲。竿の半ばを握り込んでいただけのそれで吐精の瞬間に間に合うことなどできず。びゅるりとした音、感覚は射精のそれで。
何度か、びゅくびゅくと吐き出した後、熱は急速に冷めていく。潮が引いていくような感覚だった。外気に冷えた汗は理性を急速に掻き集めていくもので。
夜に溜息は零れた。汚れた指先では彼女の写真に手を伸ばせない。もう一度と溜息、彼女を汚してしまったと。眼差し、写真に飛んだ白濁に、そうして自身が今の今まで或いは今でさえ思い浮かべている想像の四肢に。
「……好きなのデス、司書殿」
ぽつりと音は部屋の薄影に霞んでいくようであった。
さて、この綴りはここいらで終いで先を綴ることはないのだけれど、八雲と司書が在るということは話は続いていくということで。例えば事の初めは想像、気を付けもしていたが後に控えることもなかったそれ壁が薄く彼の行為も司書を呼び縋った声も筒抜けであったなら。例えば遊びにいらしてもとの彼の誘いを司書が眠れぬ夜に思い出してそうして扉の前に幾分前からいたとしたら。他、知らずに互いが呼ぶ名に縋って己を慰めていたとしたら。
語るに及ばず、ご想像ご自由に。お目汚し失礼、どうもご退屈様!