追憶、幸ヰニ至ルニ
淡い光りに掬い上げられた自身の意識、それは例えば誰も彼もがつつましく指を組み合わせて祈るあの十字を背負った神々しい存在のような。その折、それは自身が頭を垂れることはなくただ閉ざしていた眼をそっと開いてみた時で、疾うに昔失った光は星々を思わせる眩い煌めきを以てこの眼を痛ませたのだった。
室内の明るさ、後に思えばそれは別段に明る過ぎるものでもなくて平淡なる生の明るさだけれど、その明るさに星を思った僕であったが少しの時間、その数秒の後に星を思ったのは部屋の明るさなどではなくなっていた。
それは、僕の視線の先に在る司書さんの頬に流れる天の川。ぽたりぽたりと落ちる星を屑などと称することもなく。流星は、ただ紅色した天鵞絨の敷物を濡らしていて。
その人は泣いていた、殆どに黒い一冊の本を胸に抱きながら。
「あの人を助けて、どうか、どうか助けて……!」
闇夜に打つかり弾けた星、星は暗過ぎる夜に呑み込まれていくようにも思えた。
転生された寸時に与えられた情報と、司書さんの言葉。抱かれた本、闇夜に寄り添う銀色の輪。この人は、銀河に在る尊い惑星を思わせるこの人は、きっとこの人の言うあの人助けたいのだと解った。何故、全てがその数秒で理解できたのかは分からないけれど、その時僕には確かに解った。
司書さんの言うあの人は、既に遠く遠くに行った人。見上げた夜の空にある星より遠く遠く、少しも見えないそんな遠くへと行ってしまった人。そうして、残されたのは記憶と生きた証であるというのに、文学に携わっていた故にその尊いものさえ奪われる目前であると。
夜の空に星は見える、見えるけれどそれは疾うにいなくなった星。輝きは今なお見えていようと、星は何処へ。
「助けて……」
闇夜には、ほんの僅かに薄い光りが在ったかもしれない。けれど、見仰ぐ空に星が存在していないとすれば。
一番の幸いとは、一体なんだろうか。
きら、きらきらと眩い。ほの甘い砂糖菓子のような笑みで司書さんはくすりくすりと笑う。淡い金色のカーネーションをその胸に抱き、僕にとっても尊い人は昼空の下に笑みの唇で在る。時折に、ふと思い出せないものに戸惑う形を作りながらも。
「賢治くん、私何かを忘れているような気がするの」
本当にどんなに僕にとって辛いことでも、それが尊い人の一番の幸いであるのなら。けれどもどうして、悲しい気持ちになるのだろう。そっとふわりとした花に侮蔑の眼差しを向けられる。
けれども、一番の幸いを。それだけを、司書さんに。
あとがき
「一番の幸い」これが私にとって、賢治くんのキーワードです。
今回書いた話、賢治くんにとって司書さんは出会った時から一番大切な人で、であれば彼女にとっての一番の幸いをと思いました。
司書さんにとって大切な人は故人、故人を思い続けることは果たして一番の幸いに至るのだろうか。
彼女にとっての彼が文学に携わっていた者で、侵蝕者によりその全てを、彼女の中から記憶が失われること。これがもし一番の幸いに至るなら、故人を忘れることが一番の幸いに至るなら、と。
賢治くんは司書さんの一番の幸いを思って、行動した。或いはしなかった。
一番の幸いってなんだろう。
でも、そんなの分かるわけがない。だって文豪は、転生した文豪は人間なんだから。神さまなんてものじゃあないから。
一番の幸いを、それだけを思ったお話です。