緑川夫人の不在、或いは独占欲のみせ方について。



 緑川夫人とは、黒蜥蜴のことでありました。いえ何も、ワタクシの、そう江戸川乱歩その男の著作のことでは御座いません。今この時にそうと呼んでおりますそれは、まさしく黒い蜥蜴で在るその生物は、所謂を刺青でありました。
 つまりそれは、有魂書より概念として掬い上げられ洋墨や歯車、或いは仮初の肉の魂の人形に詰め込まれ形成された此のワタクシの、肌の上に描かれた刺青でもあるのです。
 その表現はおかしいのではないかしらん。と、もしや誰ぞは頤に指先を触れさせながら小首のひとつでも傾げてみせるでしょうか。刺青である黒蜥蜴を生物と表現するのは奇妙極まりないと、墨で描かれたそれが生命を有しているはずがないのではないか、と。唇を笑ませて。
 いえいえ、ワタクシとてその抱くであろう疑問の心は解します。もし、ワタクシの肌の上にぬらりと身をくねらせたりちろちろと舌先を遊ばせる爬虫類が在りませんなら、ワタクシだって黒い蜥蜴にわざわざ名前なんて付けやしません。まァ、名付けの親はワタクシではないのですけどね。
 さて、もう少しばかり緑川夫人のことについて手繰り寄せてみましょうか。
 彼、いえ彼女、いえまァ、真実どちらかは分からないのですけどね。なんたって刺青のそれをひっくり返して雌雄の把握をすることはできやしませんので。尾の付け根で把握できるらしいとは言いますけど、刺青のそれに適用されるかも甚だ疑問でもありますし。ですのでまあ、便宜上彼女としましょうか、司書の方に名付けられた緑川夫人というそれは女性形のものですしね。
 それで彼女は、ワタクシの皮膚を寝床とする彼女は、時折に此の肌の上からちょっこり旅に出てしまうのです。手荷物ひとつも持たずに、置き手紙の一枚だってありやしません。アッ、どうにも今現在、此の肌の上に緑川夫人はいやしないぞ。という肩透かしにも似た感覚、それだけが置き手紙のようなもんです。
 突然の旅立ち、それはきっと、彼女のお眼鏡に敵うものがあったのでしょうねえ。まったく、宿主の気も知れず、気侭に生きるところなど本当に緑川夫人を思わせて名のしっくりくることの度合いといったら。或いはもしかして、刺青とて、名という言霊に縛られていることかも。興味深いことです、今はそのことについて話を深めるだなんてことしませんが。
 そうも振り回されちゃ大変だな、と唇にしますか。図書館内を這いずり回っちゃ。けれどまァ、この旅立ちこと摩訶不思議にも条件があるんです。ワタクシが摩訶不思議なんて口にしちゃあ、ちゃんちゃらおかしいことですけど。
 それはそうと、此処での営みには慣れましたか?
 生前のそれと似ているようで非なるもの、やはり少しばかり勝手が違うでしょう。似ているようで非なるものであるのは営みどころかこの身体の成り立ちからではあるのですから、生前と表現するのも変でしょうけど。まあそれはそれとして、ワタクシも先立ってから多少経過させた時間が長いもので、先輩風を吹かせているようなもんです。ふふ、先立ってというとこれもおかしな響きだ、ただ此の図書館の敷地にアナタより先に降り立っているということだけなのに。言葉とは、愉快なものですね。
 愉快といえばそうだ、あの、掬い上げられた感覚をアナタはまだ確かと覚えておいでですか。ええそうです、司書の方のお力によって有魂書から掬い上げられた、その折の感覚のことです。なるほど、まだ確かとその身に在りますか。あの何とも言い表すことのできない感覚というのは、日に日に失ってしまうものなのです。
 忘却というよりは、身体にあるいは此の内側に在る洋墨や歯車やなんぞに馴染んで霞んで、そればかりを手繰り寄せることができなくなるといった方が確かでしょうか。
 ですから、羨ましい限りです。その愉快さを未だ手繰り寄せることができるだなんて。
 そうなのです、新たな方を掬い上げる際のお手伝いでは、得られる感覚が異なるのです。不思議なものです。ですが、心を傾けられている主体がそちらに在るとすれば、それも理解できるものでしょうかね。
 おや今度はそちらからの問いかけ。なるほど、生来のそれについて、ですか。ええまァ、また違ったご時世が可能性を増やしましたでしょう。死に体同様になったトリックが無いとは言い切れませんが、文化の発展に伴い舞台袖に並べられた新たなる小道具をどのように扱ってやろうかと、多様な角度から観察することの楽しさったらないです。
 若い肉の器に引っ張られて、観客に両の掌を曝け出すようにエンターテイナーのそれに興じております。多少、青臭さを感じずにはいられませんが。どうにも器に手繰り寄せられまして。これではまるで、人格が宿るのは肉塊だと言っているようですね。あの、アクアマリンやトパーズ、ルベライトの宝石を彷彿とする結晶を知りながらもそう言っては誤解を招く。さても、知的好奇心を突っつかれてやまないご時世なことで。
 なるほど、興味深いと言うと特務司書の方に他ならない、と。それも、そうですね。巧みに錬金術なるものを操るさまといったら、おや、そこではない。妙齢の女性ひとりが男ども溢れる大所帯を切り盛りしていることへ、の。英雄色を好むと言いますが文豪もまた色を好む、ですかねぇ。
「おや、お噂をすればというやつだ。お加減如何です」
「……普通、ですかね」
 顎の下で組んでいた指先を組み替えながらワタクシが眼差しを司書の方に注ぐと同じに、傍の方の視線も寄せられているようでした、彼女に。けれども少しだけ上げられた彼女の片眉の些細さに気づくのはワタクシだけであり、ワタクシが仄かに含ませたそれに気付いたのも彼女だけでありました。
「推理小説のトリックにでも華を咲かせていたんですか」
「まァ、そんなところです。或いは未だ花の蕾はふっくらとしたままで、隠れん坊といったところですかね」
「はぁなるほど、焦れますね」
 殆ど感情の寄り添わない声色ではありますが、その素っ気無さからとある感情を掴み出すことが愉快であると私とて知ってますよ、としたり顔をしているようなものだ。
 彼女の爪先がほんの僅かに襟元をかりりとやって、それに伴う衣擦れの音が今は常人より発達した五感のうちの聴覚を刺激するようでした。
「ああ先生、この乱歩先生をはじめとして変わり者ばかりですので気苦労も絶えないでしょうけれど、どうぞ今後ともよろしくお願いしますね」
 改めて、含めて仰ったようでした。
 司書の方の眼差しが差し込まない角度、ワタクシがちらりとやった彼の腿の上ではその両の手の指先がもじもじとしておりました。それがワタクシには大変得意ではない蜘蛛という生物の蠢きにも感じられまして、孔雀青の眼差しをとある感情を以ってより深めることとなるのです。
 何も騒音を響かせたわけでもありません、ただ静かに席を立ちました。或いは舞台に躍り出たというわけです。彼女の身体に腕を回す、なんてことはしておりませんけど。
「そういえば、緑川夫人の旅立ちこと摩訶不思議に課せられた条件の話を途切れさせておりましたね」
 唇の前に人差し指を一本添えて、眼差しの注目を集めながら仕掛けを手繰り寄せているようなものです。此の口辺がまだかまだかと、引き吊りそうで、いけない。
「緑川夫人も一応肌に住んでおりますからね、ワタクシの。そこいらの壁やらテーブルやらに無作為に逃げ出すことは適わないのですよ」
 つまり。
「肌と肌が重ならないことには、ね」
 すぃと流れを描いて司書の方の装いに触れる、そうともなれば展開はお察しいただけるものかと。ぺらりと、装いの些細なそれを捲りあげることでしょう。
「みぃつけた」

 そうして、舞台に立つのはワタクシと特務司書のアナタ、そう、お互いだけでありました。
「乱歩先生、新しく来る先生に毎度毎度これをやるおつもりなんですか」
「牽制は大事でしょう」
「あのお顔、真っ赤になって、意外とあの先生も純情なんですね」
 椅子をはっ倒して慌てたように此の場を去った、今はひとっつも見えやしないその後背。それが今も眼差しにできるようにアナタはそちらへと顔先を向けているもので、妬けっぽい声色をワタクシとて纏わせてしまうのです。
「おやおや、他の男にそうも思索耽って。いただけません、悪食にも程が有る」
「酷い独占欲ですね」
「えぇ、えぇ、そのような感情の塊と化しておりまして」
「叙述トリックというより、相手の勘違いを用いているというか……いえ、それが叙述トリック……? まあ形式の名称だなんて何だっていいんですけど、誤解を招くセリフの選択はどうにかならないものですか」
「誤解だなんて、嘘偽りを紡いだわけでもないではありませんか」
「肌と肌が重なるだなんて言い方、ずるくありませんか」
 アナタの首筋にちょんと指先を触れさせました、悪戯な男児が金魚鉢を覗き込みながら水面を突っついている姿にも似ております。そうすれば赤い尾鰭を揺らしながら金魚が寄ってくるように、緑川夫人も長い尾っぽをくねりくねりさせながら寄ってくることでしょう。
 あとは肌と肌に梯子をかけてやるようにしてやれば、ほら、夫人がおかえりになってくる。
「ほんの些細とはいえ、燻った感情の湿りを抱いたワタクシの指の腹がアナタの肌のさわりや皮膚の下の血潮、その細波の震えを知ったとすればもう、他ならないのでは」
「ですから、言い方」
「物書きでして、エンターテイナーでもありまして」
 それに、アナタに首ったけなただの男という生き物でありまして。
「いつ、緑川夫人を送り出したんです」
 その声色は、非難の色を抱いてはおりませんでした。偏に、犯行時刻を知りたがっているものです。
「アナタがちょっくりうたたねに興じている際に。安心してください、悪戯な心は一所懸命に押し留めましたので。伏せられた睫毛の影が落ちるその頬をすべりと指の腹でやったまで、です」
 存在しない鱗の濡れ光を横目に流れるようにして思い出すその犯行シーンと、浮かび上がるものというのが。
 ワタクシの肌を伝い、ぬらぬらとおりていく緑川夫人。本当は黒一色でそのような鱗のぬめりなど在りはしないはずなのに蠱惑的な動きでおりていく黒蜥蜴はいっそ、その存在こそが私の妬けっぽい感情やちぐはぐさであったのです。首筋へとおりていき、装いの影に触れ、ワタクシの眼差しを逃れるかのように深くに身を秘めさせたそいつが、ほら、羨ましさと妬けとそれもまたワタクシであるという優越感と、極彩色のあらゆるをない混ぜにして、何色であるかだなんて断言できないようなものです。
 故に、縋りつくのは臆病でいてこもらせた湿度を吐息とした、ワタクシのセリフでしかありません。
「そろそろご慈悲のひとつでも頂戴したいのですけどねぇ。ワタクシ、泣いてしまいそうです」
 しくしくと泣き真似を共にして、胸元でシルクハットの鍔を指先にぶら下げるのです。宙ぶらりんなのはワタクシの恋情でもありました。
 少しだけ、アナタの唇が笑みの形に吊り上げられたようでした。その唇が何を囀るのか、耳を澄ませることです。
「そのような可愛げがありますでしょうか、乱歩先生に」
「いけずな人だ」
 そのようなところもいっそ惹かれてやまないと歪んでしまいそうになるワタクシの口辺というのが、これが惚れた腫れたの終着であるようなものです。或いはそう、執着というやつです。
 さて、シルクハットを仰々しく被り直してやりましょうかといったワタクシの動きを止めたのは他でもない、アナタの、言葉でありました。
「私も、乱歩先生がこのような形で私に執着しているところを見せびらかしたいので、もう暫くは慈悲の心なんて持ってあげやしませんから、よろしくお願いしますよ」
 つんと突かれたシルクハットが、宙ぶらりんをやめて、おちていきました。恋は落ちるものといいますが、まさに、そのような。
 そうして不意打ちにエンターテイナーの仮面を被り忘れたワタクシの顔を見ながらアナタは笑むのです、上唇と下唇の隙間から覗く舌先の赤に、黒蜥蜴を思います。ちろちろと舐られたように、今度ばかりは身を捩らせたのはワタクシでありました。嗚呼、黒蜥蜴の舌先が赤いはずがありませんでした。滑稽なことで、お粗末様でした!