さくらんぼが夢みたソーダと溺死



 乱歩先生の瞳の色をはじめて見たとき、私の心はなんだかしゅわしゅわとした。先生の鮮やかな青色がまるでソーダのようだなんて思ったからそんなことになったのかもしれない。それで、そう、グラスの中に満たされたソーダを想像した。そこにあのやたらと発色の良い赤色のさくらんぼ、缶詰のさくらんぼのこと、それをぽちゃんと入れる。グラスの底から細かな泡をしゅわしゅわとやるさくらんぼになりたいなあとなんとなく、なんとなく思った。いやほんとをいうとちょっと違う、さくらんぼになりたいというのは間違ってはないけれど私はそのとき何故だかソーダに溺れたいなあと思ったのだ。純粋に、すくなくとも女の子にとっては純粋な気持ちで。
 言ってみれば、もちろん本当に口に出して言ったわけじゃないけれど、言ってみればあなたに溺れたいだなんて感情それがつまりは恋でさらには一目惚れっていうものだったのだけれど、私がそれに気付いたのはもっともっと後のほうで、そのときの私はただしゅわしゅわとする心がこそばゆくて、少しだけ不器用なはじめましての挨拶をした。何も好きの気持ちが透けたものじゃなくて、躓くような言葉になっただけ。
 ソーダとさくらんぼ。でもそこに誰かアイスをぶち込んでソーダフロートにでもしてくれたらよかったんだ、そうしてスプーンでぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、恋心なんてものをうやむやにしてくれていたなら。だって、私はうらまれている。私が好きな人は、乱歩先生は私を恨んでいる、きっと。

 乱歩先生! あなたはまるでソーダみたいで、私はさくらんぼになってあなたに溺れてしまいたいです。もしかしたら、きっと、心がしゅわしゅわとしているっていうことが、恋をしているってことが、もうソーダに溺れたさくらんぼっていうことかもしれないけれど。
「ああ、溺死したいな」
 図書館の本を片付けながら思わず口から零してしまったら側にいた秋声先生がぎょっとしていた。そうして眉を寄せて、困った顔でしばらく考えた後「そんな辛そうなことやめときなよ」だなんて言うのだ。人がいいなあって思ってそれといっしょに申し訳無くも思った、何も自殺を考えてのことじゃないのだから。もちろん、聞こえ悪かったと思ったけど。
「なるほど、溺死って辛いんですか。どうなんですか太宰治先生?」
「普通聞いちゃうかな! う~ん、入水自殺は失敗しやすいしな俺としては勧めないっていうか俺たぶん溺死っていうか……いやっていうかデリカシーないな!」
 デリカシーがないですって! 別に治先生は怒ってないしその後「俺のことが聞きたいだなんてやっぱりファンなんでしょ? いいよいいよ分かってるからさ」といつものお調子だ。でもきっとそう、私はデリカシーがないのだ。だからそう、好きになった人にも恨まれてしまうのだ。それも最初っから!
 本当の本当に最初っから相手に嫌われることってあるのだろうか、あるんだろうなだって私がそうなのだから。顔を見合わせるその前に他の誰かから人柄を聞いてて好かないなあってなるんじゃなくて、そうじゃなくて、もう何て言うかそう、人生が始まった瞬間の確定事項みたいなもの。
 ああ私、アルケミストなんてものに、特務司書だなんてものにならなければ良かった。でもそうであったら乱歩先生にも会わなかったしあの人を好きになることもなかったのかと思うと、じゃあ私はどうすれば良かったんだ! と騒ぎ立てたくなってしまう。実際騒ぎ立てた夜もあった、声は出さずに枕にバシバシと八つ当たりした。
 恋ってもっとあまいものじゃあないのかなあ、少しのスパイスでぴりりとしても砂糖も蜂蜜も加えたような胸焼けしそうな感じの。これじゃあ私が口にしているのはスパイスだけ、むしろ香草でそれも生で食べるなんて変なやつ。青臭くって堪ったものじゃない! きっと私の恋ってやつは青臭いのだろうけど、でも未熟なだけならまだマシかもしれない。完熟する確率があるっていうなら。
「秋声先生、私、ソーダで溺死したいんです」
「ソーダ?」
「ソーダです」
「はあ、まったく……随分と平和なようで良かったよ」
 そうだろうか、平和どころか冷戦できびしい対立状態だ。はたして和解の道はあるのだろうか。

 乱歩先生が助手の日は、やはりというか当たり前にどきどきする。窓際のレースのカーテンを抜けた太陽の光が、私が渡した書類の文字を追う彼の目をより耀かせているような気持ちになるし、ゆるやかな瞬きで震える睫毛などにこの人の睫毛は長いなあだなんて何度めかの感嘆を胸中に響かせるのだ。それといっしょにふっと零される吐息がひどく私を臆病にさせる、もしかして何かが気に障った? ああこれ以上彼に私を嫌わせないで! と存在も知らない神様に祈りたくなる。どきどきしてしまうのだ、どうしようもなく。
 司書業の書類作業はどうにも遅くなってしまう、別に仕上がりが遅くなろうと乱歩先生の助手である時間が変わることなんてないからただ、私が事あるごとにどぎまぎして効率が悪いから。好きな人の前で粗相なんてしたくないのに、上手くいかないっていうのが恋する乙女ってやつだ。何が恋する乙女だって自身を鼻で笑ってやりたくもなるけど。
 すん。本当に鼻で笑ってみたんじゃあなくて、なんだか良い匂いがするなと匂いを嗅いでみた私のそれ。あっ、と思ったのは乱歩先生がティーカップなどをそっと私の視界に潜り込ませてきたから。かちゃんっと鳴ったそれに心臓が跳ねた。休憩にと先生が淹れてくれたのだ。助手のお仕事だからとそうしただけ、何処かの乙女さんはちゃんと分かっているのかな。私の肺を満たすラベンダーの香りに、カップに寄り添うその花の束が少しずるく感じてしまうのだ。
「ラベンダーに蜂蜜を加えたハーブティーです、お疲れのようですので。知っていますか? ラベンダーは癒やしの女王なのですよ」
 ちょっとした心遣いのつもりです、だなんて。そ、そういうところがずるい……。人のことなど知らないのだ。内心頭を抱えて蹲る私のことなど、知らないのだ。この江戸川乱歩という男は!
 蜂蜜の仄かな甘みが私の心をほっとさせる、緊張で少し冷たかった指先がじんわりと温かくなる。乱歩先生も同じ、いやラベンダーの花束は寄り添ってないやつだけど、自身の分のハーブティーを手に椅子に座った。カップを口元に寄せるその姿をじぃっと見てしまうのは仕方ないと思う、吸い寄せられるように見てしまう。あのいつも穏やかに笑んでいる口辺がちょっと下がって、カップの縁を迎えるようにほんのちょっと無防備に隙間をあける唇。色っぽいなあ乱歩先生、とちらりと覗き見てしまう。この瞬間、私はさくらんぼじゃあなくてあのティーカップになれないものかしら? だなんて思うのだちょっとだけ。
 視線がぶつかった。私にとってはぶつかったという言葉通りの衝撃だけどそれは乱歩先生にとってはそうでもないのかもしれない、彼の口辺が吊り上がって、いつもの笑みだ。私は覗き見のそれがどうにも悪いことをしていたように思えるし、慌ててハーブティーの水面へと視線を落とすのだ。
 乱歩先生がハーブティーへと吐息を零す音がした。

 思うことがある、思うっていうかそれは事実なのだけれど。悪戯な心を含んだ笑みであのソーダを思わせる目をきらめかせるのにふと、ふと何もなくなることがある。乱歩先生の目から突然旅立った感情は何処へと行ってしまうんだろう。人知れず、何処へと行くの。それも、私をほんのちょっと視界に入れた後だなんてあんまりだ。
 いつか、押絵だなんて持ってこないだろうか。そうしてただ無感動なまなざしを私に向けてそれでも何も言ってくれないままにいなくなりそうで、おそろしい。せめて置き手紙のひとつでその意味を教えてほしい。でも、それもやっぱり嫌だ。乱歩先生の口から「アナタの事を嫌っておりました」なんて言われた日には自分がどうなってしまうか分からないし、手紙だって文字だってそうだ、ああ考えただけで胸のあたりが痛くなる。とても、堪えられなくなってしまう。
 私ってもう、ソーダに溺れてる。だってこんなにも息が苦しくって仕方ない。後は死んでしまうだけ。ソーダで死んでしまうだけ。勝手に溺れ死ぬなんて迷惑だろうけど、どうせ迷惑をかけるというならソーダで死ぬんじゃあなくてソーダ手ずから溺死させてくれないかしら。
 ソーダに溺れている私は目も痛ければ鼻の奥だってツンとしてしまう。ああ、息づらいったらない、生きづらいったらないのだ。まだまだ短い人生の今までだっていうのに、私でさえそう思うんだからきっと乱歩先生だってそうなのだ。乱歩先生は私みたいにソーダに焦がれたあとにそう思ったんじゃあないだろうけれど。
『たとえ、どんなすばらしいものにでも二度とこの世に生れ替って来るのはごめんです』
 さくらんぼが死ぬ音がするわ!
 好きな人のことを知りたくて、知ろうとしたらこんなことを知ってしまった女の子はどんな顔をすればいいの。普通はどうするの。きっと、好きな人が生前残した言葉に苦しめられる女の子ってそんなにいないだろうけど。とんだ呪いだ。呪ってるのは誰なの、きっと私は乱歩先生に呪われてるだろうけど! 先生の呪いは本当に私を蝕みそうでこわい、この胸のじくじくが呪いなのかもしれない。ああでも、好きな人に呪い殺されるのって少しロマンチックなのかも。そんなわけないのに、ちょっぴりそんなことを思い浮かべてしまうのが恋は盲目だっていうんだろうな。本当にやっかいだ、恋心ってやつは。
 私の八つ当たりを受ける枕の側ではあの日のラベンダーがかさかさと笑い声をあげている。癒やしの女王さまは戦況を楽観視、あなたのお城は疾うに陥落されているっていうのに。香りがお節介を焼くように夢に乱歩先生を招待するけど、好きな人が夢に出てきたらその人は自身を好きであるだなんて解釈した昔の人はどれだけ強気だったのだろう。先生の指が私の前髪を梳いて、ああ私、死んでもいいわって言ってやりたい。月を賛美してよ、乱歩先生。

 甘く焼けただれる林檎にカラメルに焦げる砂糖、鼻先をくすぐっていくシナモンやクローブの香り。オーブンがちりちりと焼いていたのはアップルパイで、絆された熱を冷ますように寄り添ったバニラアイスが為す術なくてろりと溶けていく。私このまま、焦げていく。
 二度寝の睡眠が私に与えたものは甘美な夢だった。朝から誰かがキッチンでアップルパイを焼いているらしい、目覚まし時計はもう昼を教えてくれそうなものだけど。
 美味しそうなアップルパイの香りは私を夢の中でアップルパイの心地にしたけど、浅い夢は私をそれだけにしてくれなかった。私はアップルパイだったけれど私だった、ちりちりと乱歩先生に焦がれるどこまでも私だった。オーブンの熱は乱歩先生の指先が私の肌を極薄く撫でているようなもので、重ねられる度にそれは熱くて熱くて、こんがりきつね色でとどめておくだなんて無理だ。お皿の上に装われてアイスさえ落とされたって私はそのまま熱に焦げてしまうのだ。
 なんて、起きた後も妙な気持ちにさせられる夢。良い夢なのか悪い夢なのかはっきりして! 良い夢ではあるけれど尾を引きすぎて私はまだアップルパイの心地なのだ。そんな状態で私がアップルパイを食べるだなんて、共食いもいいとこだ。それに、乱歩先生がアップルパイを食べるのをどんな表情で窺えばいいの。他の先生方も食べているというのに、乱歩先生のそれにばかり気が向いてしまう。
 パイ生地はさっくりとフォークで一口大に、運ばれた先で乱歩先生の唇を微かに汚すアップルフィリング、ちろりと舌先で舐られ消えていく、私のフォークはアップルパイの惨殺死体を作り上げていく。
 なんてこった、私、乱歩先生のことをこんな風にしか見られなくなってる! あの唇が私に愛を囁いてくれないかしらだなんて思っていた時が可愛いもんだ、先生は女の人とどんなキスをするのかだなんて考え込んだ時だって可愛いもの、ああやらしい。此処にあなたに食べられたがっているアップルパイがいるんですよ乱歩先生と叫びたがった唇でフォークを咥えた。「フォークを咥えないの」とアップルパイの制作者に怒られた。
 バニラアイスで舌をあまったるくしながら、乱歩先生が私にキスをくれることなんて絶対ないだろうけど私と乱歩先生は今、おんなじ舌になってる。同じバニラアイスの味になってると思った。もちろん、そんなことを考えている私の世界はお互いだけなのだ。乱歩先生と私だけで世界は確立している、そうじゃなきゃバニラアイスの舌の人はいっぱい此処にいるわけだし、乙女の頭の中というのはそんなものなの。
 ああ、ソーダを招かなきゃ。そのソーダは無糖だから、こんなあまったるい幻想を洗い流してくれる。ぱちりと弾けた気泡は、むふふと変に笑いそうになっていた私の唇をきゅっとさせた。
 ほら、乱歩先生の目から感情が旅立ってる。

「そろそろ、本当に、どうにかしないと……」
「どうにか?」
 どうにもできないとしても口はそんなことを独り言として零してしまうもので、私のそれを拾い上げたのは秋声先生だった。おやこんなこと前にもあったな? だなんて思いつつ頷きながら「どうにか」と鸚鵡返しをすれば「それってサイダーで溺死するってやつのこと?」と聞いてくるから「ソーダです、サイダーは無色ですけどソーダは青いですから」と我ながら神妙な面持ちで返したと思う。
「一応聞くけど、それって例えなんだよね?」
「例えですよ、もちろん」
「ソーダも溺死も?」
「ソーダも溺死も。もうソーダに溺れてるんですけどね、いきづらい~って。溺れてます、後は死ぬだけです。でも秋声先生、私、最初はソーダに溺れたいそうしてソーダで溺れたいだったのに今はソーダ手ずからそうして欲しくて堪らないんです。欲深いったらないですよね」
 黄昏色はアイスティーの色に似ている、だらしない私の気持ちで氷はとっくに溶けていて、グラスなんてもう汗もかいていない。カランッと耳に心地好い音は遙か彼方なのだ。怠惰だ、最初っから望みがないならもうできることなんてないからただただ、見守ってる。そのくせして焦燥に駆られて、どうしようもない。
「司書さんってさ、恋してるよね」
 本は大事にしないといけないのに、手から滑りおちた本はバササと音を立てて床にぶつかってしまった。
「なんで、疑問系では、ないのです」
「当事者以外は分かるものだよ」
「……そうかなあ」
「ふーん、ソーダと溺死ね」
「私はさくらんぼです」
「へえ、変わってるね」
 変わってるのは秋声先生だと思う、私が落とした本を拾ってくれて、それでもそれっきり何も言わないのだから。これには私も思わず別の話題に変えるべきだろうに或いは沈黙を貫くべきであろうに言ってしまうのだ。
「フツウ、もっと何か言いません?」
「え?」
「なんでそこで秋声先生が驚いたみたいな顔するんですか。普通にこっちがそんな顔したいですよ」
「はぁ、まあ、僕も馬に蹴られたいわけじゃないからね」
「なんで馬?」
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、ってやつだよ。それで、はい、僕はこの本を片付け終えたから今日の助手は終了だ」
「あっはい、お疲れ様です」
「司書さんは……まあ、頑張って」
 頑張って、とは。
 秋声先生の言葉の意味はわりと直ぐに分かった、彼がいなくなった後に私の腕が抱えていた本がにゅっと視界の端から伸びてきた手に取られ片付けられ、そうしてその手の持ち主がまさに江戸川乱歩その人であったのだから。
 いったい今まで何処にいたのか、いつからいたのか。私の驚きはひぇっという情けない音として喉の奥から零れでた、足もこの場から逃げだしたがっていたしなんなら、逃げだした。一歩、でも一歩だけ。それ以上は逃げだせなかった、何故なら私の逃亡を阻止するように、本棚へとドンッと突かれた乱歩先生の手があったのだから。もう一度、ひぇっという情けない声が漏れた。
 ああまた、乱歩先生の目から感情が旅立ってる。
「どうか、逃げないでください」
「せっ先生の目からだって、感情が旅立ってます……!」
 変なことを言ってしまったなとは思った。私は確かにそう思っているがそんなことを実際言葉にしてしまうとやはりそれは変なのだ、現に乱歩先生の表情はきょとんとしている。ああでもそれは、旅立った感情が戻ってきたっていうことで、今の旅立ちは押絵を持ってもう帰らないぞとばかりの旅立ちじゃあなかったのだなと安心する自分もいた。いや前言撤回、こんな状況で安心などできるはずもない。息がしづらい、呼吸をする度に乱歩先生の香りが肺を満たすものだから、とんでもなく息苦しい。良い香りをまといやがって!
「ああ兎に角、逃げないでください。もう沢山だ、ワタクシから逃げ出したいばかりのそれはどうかもう、よしてください」
 逃げるも何も、逃げ道は乱歩先生が防いでるじゃないか! 気付いたら、もう片方も乱歩先生の手が突かれていて、袋小路だ、追い詰められている。
「ワタクシの目を見てください、或いは、そう、ワタクシを見てください。……アナタ、恋をしているんですって?」
 アナタコイヲシテイルンデスッテ。乱歩先生の口から紡がれた音っていうのはどこか遠い国の知らない言葉のような響きを私に与えた。それで、翻訳にずいぶんとかかって、それでも実際は数秒だけれど、かかって私は口を開く。
「……乱歩先生、私は」
「っワタクシは!」
 乱歩先生の声は私の言葉を遮った。
 それで、次の瞬間にさくらんぼは勢いよくソーダに飛び込んだのだ。そうか溺死でもあり、投身自殺でもあったのだ。しゅわしゅわとするソーダは小さな泡を視界いっぱいにするはずなのに、乱歩先生の表情を遮ることなく私にみせた。困ったように下がった眉尻や、僅かに細められた目、その目尻あたりの朱や、私に伝え震える唇。愛しさを噛み締める顔。
「……ワタクシは、アナタのことが好きです。とても、……とても。嗚呼、駄目ですね、もっと言い様があっただろうに、これでは駄目です」
「だめ、です」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。本当はもっと用意立てようと思いました、場面も言葉も上等に仕立て上げてから臨もうかと。でも、駄目ですね、ノンフィクションのそれでは筋立てなんて、嗚呼本当に、気持ちばかり先行してしまっていけない、どうしようもない。それに、アナタは好いた方がいるんですから、こればかりはどうしようもない」
「泣きそうなんです、……上手く言えないけれど嬉しくて。ああ、死んでもいいわ……です」
 乱歩先生は、ひどく驚いた顔をしていた。それはとても無防備な表情ともいえる。その目の中の感情は旅立つことはなかったけれど、その場で右往左往して、ああこの人も、こんな風になるんだなあって私はまるで客観的にソーダのまなざしを見ていたのだ。
「アナタ……アナタ、ワタクシに対して他の方にはない怯えを持っていたじゃあないですか。ワタクシにはそれが涙っぽくやけな心持ちになるもので……」
「私、乱歩先生に恨まれているものだと、ずっと」
「恨む? ワタクシが? それはまた、どうして……?」
「『たとえ、どんなすばらしいものにでも二度とこの世に生れ替って来るのはごめんです』」
 あの私にとっての呪いを口にすると乱歩先生の表情というものは、ああこれは、ばつが悪いといったものになって、口は「違うんです、違うんです」と音を零した。
「ああこれは何とも……、ただどうか信じてください。ワタクシは、アナタに今生に掬い上げられて今、ひとっつも恨んでなんかいないのです。ワタクシはアナタに会えて良かった、アナタを好いて良かった。…………ソーダ、とはワタクシのことですか」
 乱歩先生はやわらかく私を抱き寄せて、私の耳元で聞いてくる。そのどこまでもやさしい声が、愛しい声が、耳たぶから私の全てをしゅわしゅわさせるのだ。
「はい、私は、さくらんぼです」
「ソーダ手ずから溺死させられたいさくらんぼですか、変わった表現ですね」
 変わってます。そう繰り返した乱歩先生の声というのはやはり、私の鼓膜をくすぐっている。こんなにも近くで。
「……ああまったく、臆病でいけない。好きです、好きですアナタが。どうか、もっとワタクシに溺れてくださいね」
 そうよ乱歩先生、恋って人を臆病にさせるの!
 そうしてソーダにもさくらんぼにも唇はあるの、だって本当はお互いにソーダでもさくらんぼでもないもの。つまり、乱歩先生はこんな風にキスをするんだって知って、ああもう。溺れてしまってる!