黙っておくのは難しい


 ひとつ、ひとつお話ししましょうか。貴女、私が唇開くことを望むなら。お望みでない、けれども私を黙らせておくことは至極難解だお高くつきますよ。さぁさぁそこにお座りに、耳を傾けてごらんなさい。きっと、事の真相の足音が聞こえてくることですその鼓膜を震わせて。
 さて、まずは貴女が今こうして私の目鼻の先におられることに関しまして。その目尻を赤く染めて、涙の珠露を今もすべりとした頬に零している。涙の跡が乾く暇もないことだ。私が差し出したハンカチに滲んで布地の色を濃くしていく、貴女の涙は私の心臓を酷く喧しくさせる。何者かにこの胸鷲掴みにされたような。
 浮かんで、零れる。貴女の涙は涸れることがない。ハンカチなどではなく私自身の指先でそれを掬い取り、水鏡めいた涙に私の眼差しを向けながらお喋りを始めましょう。にっこりと笑ませた唇はどうにも心持ちを隠すことができないでいる。勿論、全てが全て好ましいことではないのです。貴女の滑らかなる肌に浮いたその赤色、ご婦人の頬を平手払うなど言語道断、ましてそれが貴女なればなおのこと。
 旦那様が貴女の頬を払ったことに私は言い様もないほど臓腑を煮え滾らせております。例えば今すぐに目前を失敬して、その男の頬をこの拳にて殴り抜けたいほどに。けれどそれは現実的ではない、とても現実的ではない。あの男の頬を殴ることはできない。
 それはそうとして、貴女はきっと何故だ何故だと思っていますね。ぁあ貴女が私へと向けた眼差しが好ましい、ふるふると震える睫毛や指先は一見小動物を思わせる。貴女の体は何とも容易くこの腕の中に収まることです、今は。涙のしゃくりが私の心臓をも震わせる、どうにもこの唇は先へと先へと進みたがる。心許ない吐息を涙声混じりに零すきっとやわいであろうその唇へ眼差しを偏に寄せて語りましょう、そうしましょう。何せ、私を黙らせておくことは至極難解だ。
 そうです、私を黙らせておくことは至極難解です。
 貴女の頬に平手の痕、それの原因についてお話ししましょうね。それはもうしたことであるなど、どうか口を開かないでほしい何故なら私が先に述べたのはその頬を払った犯人、人物であるその男のことだけだ。事の成り行きなど、話してはいません。舌先に乗せてなど。おや、貴女今身動ぎましたか、どうにも私が回した腕の力が強かったかしらん。
 不貞。ぁあやはりこの一言で貴女は今にも逃げ出したい思いに駆られている。貴女は私が事を知らないでいると思っている、それで私に擦り寄っている、弱い女性を演じている。とても、とても興味深いことです。貴女がこの腕より逃げ出してしまいたいと思っているなら、私はそうするべきなのでしょうか。でも私はそうとはしない、私はわりと貴女の思い通りに動く男ではない。そういうだけの話だ。
 耳を塞いでも、私の唇が閉じることはありません。私は貴女の震える指先を一本ずつ解していきただただこの声音を聞かせていきましょう、私は黙ることを知りません。今はそのようなことひとっつも必要が無い。
 貴女、貴女は不貞を働いた。貞淑な御夫人などではなかった。低俗な言い方をしましょう、ただ真実を。貴女はどこぞの男と浮気した、それで旦那様に打たれた。貴女は自身のそれを知らせずにただ旦那様に手をあげられた奥方として私に縋り付いてきた、私が真実を知らないと思い込んで。ああ逃げないで、貴女のその詰めが甘いところを私はどうにも嫌いになれない。むしろ、そう、私には好ましい。とても好ましいことです。貴女は私にとって一番素敵で、全てにおいて一等で、実に愛らしい。愛らしい。
 急いている私の唇はまずは貴女に言いたがっている、私は貴女を好いているということを。どこぞの男共よりも。そう、私は貴女を愛している。旦那様を無碍にした、例えば世間一般的に阿婆擦れ女と呼ばれる貴女を。無礼な言葉を大変申し訳無い、けれどもどうにも黙ることは難しい。愛している、それでも貴女を愛している。
 弱い女を演じていた貴女はその顔の仮面を外し、傍らに置いた。そうしてそれで安堵の息を零している、私の胸元へ。貴女の吐息に擽られてどうにも私はくすぐったい、身を捩らせてしまいそうだ。或いは捩るのはどうにもこの臓腑だ、笑みばかりが零れてしまいそうだ。貴女の詰めが甘いところをどうにも嫌いになれない。
 言うか言うまいか、悩んでいてもどうにもこうにも。私自身が知っている、私を黙らせておくことは至極難解だ。これ以上は黙っている方が賢明だとしても、私の唇は急いている。
「アナタの不貞を密告したのは、誰であると思いますか?」
 誰よりも私なんかを信用して、可愛いお人。