恋情の漣に千の鳥は泳ぐか否か


なんとも穏やかな昼下がり。通りの片側に在る窓からは日光が差し込み、そこを歩み行く乱歩の体をやわく温めていた。彼の装いには傷ほつれ一つない。今の今まで潜書と呼ばれるそれを行っていたわけだが、彼にとってわけないもの。確か、一人託された任ではあったが本への侵蝕の度合いが浅いものであった為に今の乱歩、背筋はしゃんとして歩みは軽やかだ。
 怪我一つない、けれども報告は必要だ。故と乱歩は司書を探していたのだが如何せんどうにも彼女は見えず。その名の通り彼女の部屋である司書室におらず、書籍並べた図書館にもおらず。彼女を探し、かつりかつりと靴音響かせながら時折会うものに彼女の居所を聞いてみるが誰ぞ一人と彼女を見ていないという。なるほど、と乱歩は頷きまたと足音響かせる。彼の足先は自室へと向けて、その唇には弧を描いて。
 さて乱歩の体は自室へとするりとすべり込み、後ろ手閉めた扉にぱたんと音は小さく響いた。空間の主を迎え入れたそこは陽光のままに乱歩の眼差しの先に在る。ベッド、デスク、チェア。指先に白い帽子を摘んで脱いで、椅子に引っ掛けふぅと一息。外したモノクルをデスク上へと預ければそれはきらりと眩い、その隣へと並べたマント留めもまた眩いものだ。マントは衣擦れの音を聞かせた。
 乱歩は指先に引っ掛けタイを緩めた、寛げた首元。僅か天を仰ぐようにして息吐けば、乱歩の鼓膜は仄かなことりとした音に震わされた。それは本当に小さな、小さな音。そこいらの人間であれば聞き取ることできぬもの、けれども此処に在る乱歩はそこいらの人間とは言い難い。それは兎も角とし、彼は自身の聴覚捉えたその音に頬を笑ませながらやわらかに音紡ぐのだ。
「何故隠れているのですか?」
 紡いで数秒、返す声音は無い。それに乱歩はおやおやと小首を振り、そうであるならばと靴音立てながら歩むのだ。クローゼットの前へと。左手で右手、その白い手袋外した彼は素肌のそれで一度、二度と木の音を響かせた。コンッ、コンッ、乾いた音は確か聞こえているだろうと。
「何故、クローゼットなどに隠れているのですか?」
 紡いで数秒、返す声音は無い。乱歩はたっぷり十秒、猶予を与えてやった。そうしてもう一度と彼が構えた手に、なんとも頼り無さげな女の声が待ったをかけるのだ。
「な、ないです……クローゼットなどに隠れてないです」
 勿論、乱歩は苦い笑いの溜息を零した。ノックをするつもりであった手はそっとその扉を開き、そうすれば彼の孔雀青色の眼差しの先にはどうにも罰が悪いといった表情の彼女が在る。司書でもある、彼女の姿が。
「時折、アナタの考えていることが解らなくなりますねぇ。……とは言うものの、少し察するものがあるのですが」
 付き合いも随分と長くなったものですから、と乱歩。彼の言う付き合いというのは職務のそれではない、所謂恋慕のそれ、恋人間のそれだ。彼はクローゼットなどに潜り込んだ彼女の手を引き、そっと体を抱き寄せる。唇は耳元へ、ただいま戻りましたとおかえりなさいとの言葉は交わされる。少しの音をクローゼットに響かせながら。
 寄せていた体、それを離した乱歩に彼女の視線は寄せられる。僅か右へ左へと泳ぎながら、それはもぞりもぞりとしたさまで。彼女の眼差し、そうして抑えようとしても抑えが利かぬといった笑みの頬。乱歩は察している、言葉に制しようとはしないが。
「ら、乱歩先生? 潜書のそれで、どうです? 昂ぶっているのではないです? その、……ね? ね?」
 予想は付いていた彼女の言葉に乱歩は指先をこめかみに当て、僅か痛みを覚えるといった表情を見せた。
「やはりそれですか……、仕方のないことですがね」
「火照って、いるのです……?」
 明らか、彼女の瞳は期待に満ちている。彼女の嬉々としたさま、嫌いではないむしろ好ましいことではあるのですがと乱歩は少し視線を外しながら答えを聞かせる。
「ええ、……とだけ返しておきますか」
「自慰の出番ではないですか?」
 乱歩の返しに彼女の言葉は早かった。
 彼が聞かせた溜息の音も気にせず、もしかしたら知らず彼女は言の葉を紡ぎに紡ぐ。気が昂ぶるのも仕方ない、本能というものだ。潜書のそれで命のやりとりをするそれ、生存本能を脅かされれば子孫を残そうとする本能が必ず顔を出す。仕方のないことだ。火照りも仕方のないこと。だから、それを解放するのも仕方のないことだ。ところどころ声色高まり、彼女の興奮が窺える。
「酔っていらっしゃる?」
「真昼間から飲みません! いつも飲んでいるわけでもないです!」
「それはどうだか……」
 まあ確か、今の彼女から酒の香りはしないものだがと乱歩は胸中に項垂れる。彼としては彼女が酒に酔っている方が幾分都合良いものであったから。酔いに揺れているのであればそのうちに自身の声音を子守唄に彼女は寝てしまうと知っている。そうしてそうでないならこれはと、乱歩は知っている。項垂れた。
「ここは一つ論議を」
「しません! あれならもう一度潜書してくださいますか!」
「それを職務乱用と言うのですよ、知っていますか?」
 ちらりと視線を彼女へと戻す、そうすれば乱歩の負けだ。最初からそう、好きになった者が負けなのだ。潤み目で自身を見上げてくるそれと、薄っすら開かれた唇。恋い乞う音の響きは自身の名で、応じぬことなど。
 乱歩の唇から吐き出された息、疾うに熱を孕んでいる。

 時間は少し、ほんの少し空いた。勿論事が終わるほどの時間ではない、むしろ事は今からというところだ。
 気まずいと身じろいだ乱歩にベッドがきしりと僅かな音を聞かせる。ベッド上で恋人と見つめあっているというに、この後のことが少しばかり意味違うとは。
 同じような正座、彼女は両の手の平をシーツへと突いて少し上体を前へとやっている。乱歩をそっと見つめている、その熱い眼差しで。期待されている、と乱歩。薄っすら開かれた唇に自身のもので喰らいついてやりたいものだが、彼女が今求めているのは口付けのそれでない。指先に彼女の頬触れたくとも、求められているはそれでない。少し歪に息を吐き、睫毛の影に彼は瞬く。やるしか、ないのだ。指の腹にカチャリとベルトの音を響かせて。
 しゅるりと抜いたベルトの音がやけに耳につく、彼女の心臓の脈打ちも鼓膜を震わす。触れ合っていなくても。肌と肌が寄り添っておらずとも、肌に眼差しは寄り添って。寛げ、晒せばぶるりと震える。外気に、彼女の視線の前に。
「見ていて愉しいものでも……」
 無いと言いたかったが彼とて分かっている、彼女にとってはそうでないものだと。乱歩が彼女と体を重ねること何度、そうして眼差しに行為を晒すこと何度。ハジメテのそれなど、疾うに過去でしかないのだから。
 熱を孕んでいた体、それの通りに男の性は鎌首をもたげている。彼女へとそれを見せながら。彼女の眼差しに見守られながら乱歩は彼自身の手で熱を握り込む。既に仄かと勃ち上がったそれだ、自身の肌の下で脈打つさまが彼にはよく分かる。転生された身、どうもそこいらの人間とは比べられないほどに五感が際立っているために、余計なぐらいに自身の昂ぶりが彼には分かった。はぁ、と小さく零された彼女の吐息もまた。
「……っ、…………」
 一度だけ短く息を詰まらせ、少し恐々とした拙い手付きで、ゆるりと自身を擦り上げ下ろす。追い縋る溜息のような吐息は乱歩のものか彼女のものか、おそらく互いに。伏せていた眼差しを彼が上げると同じ時に彼女とて視線を上げていた。彼女の潤み目、その水面へと映る自身の姿。くらりとした。
「乱歩せんせい……」
 彼女のやわらかな声は促しだ。視線を一致させたままではと下げた乱歩の眼差しの先、彼女の体の線。場合が場合、装いゆったりとした首元から除く鎖骨に乱歩が唾を呑み込み喉仏を上下させたのも無理がない。ちらりと視線やってしまった胸の膨らみ、少しの声を乱歩が零したのは肌を擦ってしまった為に。微かなそれは甘い焦がれ、燻る熱をどうにかしてしまいたい思いけれどもまだ理性が邪魔をする。
 くすりとした笑み声、乱歩の鼓膜をくすぐる。彼女も彼の葛藤を知っている、それで可愛いと思っているのだ。そうして彼女が零した熱っぽい吐息に乱歩は思い出すまいとしても思い出してしまう、それは自身の腕の中に溺れる恋しい人のその姿。目の前の彼女をまさしく抱いているその記憶に違いない。そうしてそれは今により昂ぶるしかない記憶、自身の背をぞくりと逆さに駆けたと乱歩は息を詰まらせる。
「っは、ぁぁ……」
 詰めた息を吐き出す、その吐息が自身の腿へと落ちるか否かでもう駄目であった。乱歩の理性はほろほろと崩れてしまった。自身へと指先絡め直し、再びとされた擦り上げ擦り下ろしは音を響かせる。恐々ではない緩急をつけたそれで肌を撫ぜ、びくりびくりと震える筋を知らん振りに強く摩る。強く握り込んだままに括れ行き過ぎれば彼女を揺すっているその時を思い出す、よりと欲情するしかなかった。
「くっ、……」
 小さく、彼女の名を呼んだ。それに目の前の彼女は反射で仄かな声音を零した。その音が嬌声めいていて、ハッと顔を上げた乱歩はその視界に当たり前彼女の姿を映すことになる。焦がれがより募ろうと、彼女を見るそれを止めることができない。熱を孕んだ眼差しを向けたままに自身を扱き上げるそれを止めることができない。ぱたりと、先走りがシーツへと落ちた。
「アナタに、触れたい……!」
 そう言葉に乞うた、けれどそれに彼女が首を縦に振ることがない。自身を慰めているでない乱歩の片手、指先がぴくりと小跳ねした。
「駄目ですよ」
 指先の動きそれは乱歩が彼女に触れようとしたもので、彼の手がそうして肌へと向かう前に彼女の言葉はぴしゃりと彼を打った。どうしてと眼差しを彼女へと向ける乱歩の目さえ今は仄かに潤んでいる。目尻を薄紅くしながら。
「駄目です、私に触れないでください。私も指先一本触れませんから……自身で、自身を、慰めてください……」
 そうと言葉に遮られて、乱歩は片手を指先拳握り込む。どうしてという言葉は呑み込まれ、彼の喉奥へと落ちていく。触れるを許されないままに、乱歩はただ自身の手で欲の熱を昂ぶらせるしかない。
 最初から彼女がそれだけを望んでいたことを知っている。けれども乱歩はうわ言のようにどうして、どうしてと小さく吐き出すことを繰り返し始める。熱に浮かされ自身を扱き、ただ彼女に愛されることを望んでいる。
「アナタは、アナタはワタクシのことを好いてはいない……!」
 乱歩の孔雀青の色に浮いた涙の珠露は、彼の頬を撫ぜてはぽつりとシーツを打った。それに、彼女はふるると睫毛を震わせる。
「っ泣いて、いるんですか乱歩さん……? あぁ、泣き濡れて……」
 同じように震える唇は悲しみのそれでない。頬に差した薄紅、揺れる瞳は欲情のそれだ。彼女は確かに乱歩を眼差しの先にし欲情していた。
「ふ、ぅ……っ、……!」
「好きですよ、好きです乱歩さん……」
 肉慾を擦るそれとも泣くそれともとれる乱歩の吐息に応じるように彼女は言葉を紡いだ。言葉だけで彼を撫ぜる。すべりすべりと、ざらりざらりと。
「けれども……私には分からない。恋のそれなんて分からない」
 絶えず乱歩に眼差しを向けていた彼女、その視線がほんの僅かに外された。何処を見るでもない眼差しで思考に耽り、戻されたそれでは笑んでいる。
「恋なんて、思い込みですよ。ある一定の好意あればその先は思い込み一つ。これが恋であるかなんて、分からない」
 吐息だけが触れあう距離、彼女は乱歩を覗き込む。触れそうで触れあわぬそれに彼は気が狂いそうになる。焦がればかりが募っていく。
「これは気の迷い、あなたの。私を好きになってくれるなんて……」
「っこんなにも、アナタが好きだと伝えてもその心には響かないと言うのですか……!」
 乱歩の瞳の色と彼女のそれは混じるようだ、互いを映しただ潤んでいる。
 時間は長い、いや短いものか。吐息だけが触れあっていたそれはふと終えた。乱歩と彼女の額はこつりと触れあう。
「もっと私を好きになって、私だけを好きだと言って。乱歩さん私だけを見て、……けれども私だけを全てにしないで。好きです、乱歩さん」
 最後のそれに酷く感情を滲ませながら、彼女の手の平はそっと乱歩の腿へと触れた。びくりっと震え、声を漏らさぬように彼は下唇を噛み耐える。けれども耐えたのはそれだけ。感情も感覚も綯い交ぜに、咄嗟自身を手の平覆ったもののその下では白濁を吐き出していた。自身の肌を濡らしていた、びゅくりびゅくりと。
「乱歩さん、……」
「わ、ワタクシはアナタを愛して……」
「可愛い、私の乱歩さん」
 彼女の唇は掠めるようにして乱歩の唇に触れた。あまりにも近い距離、彼の見るままにその唇は誘いと笑む。
「――正直、興奮しています」
 それはどちらとて。嗚呼と衣擦れの音もベッドの軋みも酷く響く。黄昏など追い越して、宵ぞ来いとただシーツに沈むのだ。