昼は夢、夜ぞ現
かつん、かつんと響くのは足裏、江戸川乱歩の履いた革靴から。江戸川乱歩、と記しても彼が“D坂の殺人事件”やら“怪人二十面相”やらを書き世に出したその人そのものであるかといえばそうとも言えない。乱歩が伸ばした指先が書の背に触れ、するりと撫でる。彼の肺は呼吸の度に古書の香りを取り込む。そこには確かに人の肉体があった。けれども違う、異なるのだ。
ご存知の通り、江戸川乱歩という人物は故人である。そうしたらそこに在る乱歩が幽霊であるとでも言うのか、いや言わない。先に申したとおり彼の人の指先は書物に触れ、そうして肺は生の呼吸を繰り返しているのだから。酸素を取り込み、少し膨れる腹。吐き出し、凹む。その横、横腹にちょいと手で持ち下ろされた本が在る。墨色のそれは、どこか不思議な感じがした。
乱歩の指先がとんとんと表紙を叩く。実は乱歩が携えてるその本こそが彼のよるべであるとも言える。
諸君らは此方もご存知だろうか、近年発生している異常現象を。文学書が全項黒く染まってしまうそれ、次第に人々の記憶からも奪われてしまう文学書。文字は歴史を、感情を、人々を記す。文学は偉大だ、文学は尊い。それが失われることなど、あってはならない。それはその本を書き出した著者にとっては口にせずとも。
死人に口無し。とは言うものの、今此処に在る江戸川乱歩にはもの言う口が在る。死人ではないから、ものを言うても奇妙なことなど何も無い。奇妙であるのは、そう、故人であるはずの“江戸川乱歩”がこの世に存在しているということ。
幾つか脇道に逸れては道端の草に目をやってしまったことだ。事実を、記そう。此処に在る江戸川乱歩とは彼の江戸川乱歩に限りなく近く、それでいて異なる存在だ。江戸川乱歩の著書、それに宿る文豪の意思。読み親しんできた読者の思い。それらの思念、思想を特殊能力者『アルケミスト』と呼ばれる存在が掬い上げ、この世に転生させたもの。そこいらの人間とは、仄か異なる存在。
蝕まれていく文学を守れる者は、転生した文豪しかいない。利害の一致だ、自身が精魂込めて書き記したものがひとっつも無いものにされるなど、放っておけと手を払えるものでもなし。故に、そう、そこに見る乱歩もまた侵蝕者と呼ばれる者から文学を守るとして在るわけだ。
さてさて、しかし乱歩は暫くと潜書と呼ばれる侵蝕者から文学を守るそれを行っていなかった。別に彼が戯け者というわけではない。彼を転生させたアルケミスト、特務司書とした者の為。乱歩より少しばかり歳のいった――とはいっても今此処に在る乱歩の肉体年齢だ。文豪江戸川乱歩の享年では勿論ない――青年は、少しばかり身体が弱かった。乱歩をこの世に留めておく力もまた、それに沿うように拙いもので。そうとあって潜書を頻繁に行わせる補佐ができず、乱歩は今こうして古書の背を撫ぜてはちょこりと読み耽りそうになっているのだ。
侵蝕者の手に及んでいない文学書、日に焼けただけのそれの項を手袋越しの指先ぺらりと捲くり目次へと視線走らせる。その横顔には窓から差し込む黄昏色がかかり、睫毛の影。
乱歩の孔雀青の色、その眼が活字を見つめることどれほどの時間が経っただろうか。気付いたのは、不意に。音も気配も無かった。けれどそれに気付いた瞬間には視線も気配も在った。ただ緩やかに書物より顔を上げ、横向き仄か視線を下げれば乱歩は目と目を合わせることになる。それは、じぃと彼自身を見つめていた視線の持ち主のそれと。
ゆっくりとした瞬き。体を揺らすことも声を漏らすこともなかったがこれでなかなか乱歩と言う男は驚いていた。今現在自身はただの人としての見目をしていようと、それに収まらぬ五感等を持っている。侵蝕者と戦う為に転生されたそれの為か兎に角、耳は遠くの足音をいち早くと聞き僅かな気配を辿ることでさえ簡単なことだ。けれどもどうだ、そんな今現在の自身のそれを以っても横に並んだその存在に今の今まで気付かなかった。まるで何も無いところから突如現れたような、摩訶不思議なトリックを用いたような。
薄く開かれた乱歩の唇、けれども上唇と下唇の間のそれは直ぐにと無くなった。弧を描いた彼の唇、笑んだ。なんともおもしろい、と。
「こんにちは、お嬢さん」
栞も挟まずに閉じた本、そっと棚に戻して言うは演技めいて。白帽子を手、胸元に。会釈、地を見た視線は元へと帰る折に見ていた。乱歩は知った、目の前の人物がその体を黄昏に透けさせているのを。幽霊、だとでも言うのだろうか。
乱歩の唇、それに挨拶の言葉をかけられた少女いや成人した頃合いだろうか兎も角彼女は、目を瞬かせていた。それは驚きの心を儘に表していて、その感情の様を前に乱歩は多少の心の高揚を感じる。自身の行いで誰かの感情を呼び起こすというのはこれはどうして楽しいものだ。
「……、…………」
「おや、声が?」
はくはくと開閉されるだけのそれに乱歩はもしや声を持たぬものかと自身の喉下に手を当てて小首を傾げる。そうすれば目の前の彼女は勢いに首を横に振るのだ、それは自身が声持たぬものではないと。であるとすればと乱歩、仄かに考え自分としたことが会釈の際に付け忘れていたと笑みの形のままに忘れものを片付ける。
「どうも、ワタクシは江戸川乱歩でございます。何卒、お見知りおきを」
自己の紹介、そうして相手の出を余裕を以ってたっぷりと待つ。そうすれば、上手く言葉になっておらずとも対面する彼女は自身にその声音を聞かせてくれると乱歩。小さく、拙い一音一音。それに鼓膜を震わされる感覚を覚えながら待った乱歩が得たものは彼女の名、ではなかった。
「私は、……自分の名前が思い出せません。何故此処にいるのかも。此処は、何処ですか……?」
気付いたら、此処にいた。そうして誰にも気付いてもらえなかった。あなただって、昨日は気付いていなかった。それがどうして、と戸惑いの声音を自身に聞かせ徐々に恐慌状態に陥る彼女に乱歩はその場ゆっくりとした動作で膝を突く。努めて、穏やかな流れで言葉を聞かせる。手を取ることはできないだろうから手の平は自身の胸元に当てるようにして、相手の目を見上げるように。
「分からないなら、それでよいではありませんか。知らないということは、知る機会があるということです。知っているということは、知るという機会を失くしていることです。勿論、知識あるということも悪いことではございませんが」
涙を浮かせた瞳で自身を見てくる彼女に、乱歩は弧を描いたそれで確かな笑みを見せる。
「楽しんだ者が勝ち、というやつですよ」
まずは此処が何処であるかということからと乱歩は落ち着いた口調で彼女へと教えていった。自身が答えられる範囲で質問に応じ、合間その心を穏やかにする為に何の変哲もない世間話を挟む。書棚へ目線、それを手にすることができない、自分は幽霊であるのだろうかと顔色を悪くする彼女。乱歩はその手に手袋越しの自身の手を差し出し、やはり触れることなく透けてしまったことにただただこれでは本を読むことができませんねとだけおどけて聞かせる。
「あなたは何故そうも普通にしているんですか?」
「普通ですか、いえこれでも少し前に十二分に驚いたものです。それに、興味の方が大きいのですよ。こう言ってはアナタにとっては不快かもしれませんが」
そう良いながら乱歩は書棚の著者並び“ら”に指を踊らせた。彼の指が引っ掛けた背表紙、そこに綴られた主題が“人間椅子”であればそれの著者名は“江戸川乱歩”つまりは彼の著書だ。その本を彼女へと見せるようにしながら悪戯に笑む乱歩は同じように問い掛ける。
「アナタもまた、何故普通であるのですか? この著者である江戸川乱歩とワタクシが結び付くとは思えないはたまた、知らぬ本であるということもありますかね」
是非ご意見を。そう言った乱歩に目の前の彼女はただその目をぱちくりと瞬かせた。今の今まで気にも留めなかったというように。それで、小さく頷く様を見せてから彼女はその唇を開いて乱歩へと拙い言葉を聞かせるのだ。
「いえ、知らない本であるわけでは……。知らない、わけでは……?」
言葉尻、知らないはずはないのに思い出せないといったような彼女にそうかそうかと乱歩は首を頷かせる。正直、彼女の答えがどのようなものでもよかったのかもしれない。だから乱歩はただ自身の本を手に備え付けの机、椅子へと向かいその本を読むべく姿勢を整えたのだ。自身の座る椅子、それの横の椅子も引きつつ。
その引かれた椅子に戸惑いながらも、乱歩の行動の意味が分からぬ彼女ではなかった。びくりびくりとした動き、それでも椅子に座ったのだから。それに乱歩は満足そうな様子、なるほど椅子に座るということはできるのかと心内で頷いている。透けて通りすがるそれ、思い込みに依存しているのか。思い込みさえすれば本の項を捲くる指先が在りまた手と手を触れ合わせることもできるのではないかと、考察している。
「浅はかではあったかもしれませんね、自身のものを選ぶということは」
そう言いながらも乱歩は自身の著作を隣の椅子へと座った彼女へと見えるように項を捲くる。その視線が活字を辿る様を観察し、確かに文字の描く世界を思い描いている様を知る。心が浮くのを止めることはできない、むしろそのようなことをする必要も無い。ただ、自身の著作を読むその人の様子を静かに感じていた。
黄昏もいつしか宵を迎えることだろう、乱歩と彼女の間にもまた。気付けば本に囲まれたそこはそっと薄影に包まれていた。幾つかの自身の著作を彼女と読み返していた乱歩はそのことに気付いて顔を上げる。横を向き、未だと活字を追う彼女の横顔をしげしげと見つめるのだ。幽霊であるというなら、時間のそれを気にすることもないだろう。けれども彼はただ唇を開いた。
「お時間が過ぎたのではないですか? ほら、黄昏は疾うに過ぎ去っています」
窓の外を視線に言う乱歩に彼女は今の今まで気付かなかったと薄っすら唇を開け、仄かに眉を困らせてそうですねと言うのだ。帰り所が分からずとも。それで一度名残惜しそうに乱歩がかつて綴った文字に視線を戻して、頬へと落ちる睫毛の影。それに乱歩はどこか自身の胸がとくりと跳ねるのを感じそれもまたそういうこともあるだろうかとただ知られずに頷く。
ぱたん、と本は閉じられる。紙に綴られたそれは、物語を閉幕としていたのだから。数秒にただ静寂、自身の著作へと視線を向けていた乱歩であった。唇は弧を描いていたが、心が笑みを浮かべていたかと言われたらそうではない。ただただそれは形だけ。少しばかり、心此処に在らずと考え込んでいた。
「ところでアナタは――」
自身が浮かべた形だけの笑みなどなんでもなかったように言葉を紡いだ乱歩は儘の表情で固まってしまった。向けた顔先、そこに先程まで在った姿はなかったのだから。座る者がいない椅子がただ自身と並んでいるだけ。宵を迎えた所為であろうかどこか薄寒さが肌を撫でたが、それだけ。乱歩は誰ぞ聞く者がおらずとも空気におもしろいですねぇとした声を霞め混じらせるのであった。
ただの怪奇話であったのなら先の件で終わっていることであろう、この話はまだ終わっていないと進む。此度の潜書では精神を一片とて侵されることもなかった乱歩はその足でいつもの通りに閲覧可能な本達を並べているその空間へと向かっていた。少しおもしろくないとばかりの心持を携えて。何がおもしろくないのかを彼とて分かっていない、けれどもただ何とはなしにおもしろくなかったのだ。それだから、心を喜ばせる探偵小説が閲覧可能なその棚に一つや二つ見つけられるのではないかと、彼の足音は早に響いて聞かせていた。
「!」
僅か俯かせていた視線を上げた折、沈んでいたともいえる乱歩のそれは瞬間に浮かび上がった。孔雀青には小さな後背が浮かんでいる、それは女性の。一度だけだ、その姿を目にしたのは。それでも、興味惹かれたものを忘れることなど乱歩にありはしなかった。先日の心を浮き立たせる存在に今日とて会えるなどと、彼の足音は意味を違ってまたその空間に響くこととなる。かつんっかつんっ、その後背を振り向かせるほどに。
「エー、本日はお日柄もよく……との前置きは不要でしょうか。またお会いしましたね、お嬢さん?」
ゆっくりと振り向いて乱歩を見た彼女はその動作の儘に目を瞬かせる。その様にもしや忘れられているのではないかと乱歩は危惧し、いいやそれもまた一興であるとする。実際には、彼女が彼の存在を忘れていたわけではないのだけれど。その証拠、彼女は薄く開いた唇に音を紡いだ。その名を紡いだ。
「乱歩、さん」
どこかその瞬間、乱歩は自身の心が飛び跳ねたかのような錯覚、目を見張った。けれどもそんな様は彼女へと知らせずに、ただいつも通りの笑みとして先ほどよりは控えめに足音を響かせる。一歩、一歩と距離は縮まり、気付けば乱歩が彼女を視線見下ろしていることだ。
乱歩が見るに、彼女は先日のそれとは違って見えた。きっと前提とした状況は変わらない。それでもただただ不安に揺れていた瞳は自身を見るままに安定としている、そう乱歩はその目の色に頷く。また顔色も、悪くないように見えると。それもまた別段おかしいことでもないだろう。右も左も分からぬようなもの、親しみは兎も角知った顔があれば心落ち着くというものだ。
「お時間がよろしいなら、ワタクシにお付き合い願えませんか?」
その言葉、断る道理も無いのだが彼女に。小さく頷かれたそれを見て、乱歩はそれではと彼女の手を引くようにして、書棚の方へと歩む。手を引くといってもそれは真似事だ、何せ今日とて彼女の体は透けているのだから。
乱歩は彼女へと横目視線をやりながら好む系統を問う。その問いに彼女は答えることができないでいるが、それならばと彼は困ることなく指先に本の背表紙を引っ掛けた。その主題、目に映しては乱歩の心を躍らせる。
「探偵小説など如何でしょう、此度はワタクシのものではございませんよ」
著、谷崎潤一郎と綴られたそれを見せてくる乱歩の唇の弧に彼女は目をやってこくりと頷く。それに嬉々として席へと戻る乱歩、探偵小説というものは心喜ぶと。勿論のこと乱歩はその作品を疾うに読み済ましていた。けれどもそうだ、自身の好むものを人に勧めるというのはおもしろい。特別としたものを自身だけであると抱え込むこともまた良いものであるが今はそう、いつしかに読んだことがあろうと今現在とその記憶が無い彼女が読むことで巡らせる推理に耳を傾けたいと思っているのだ。笑みのままに頷き、時折に頭を悩ませるような挟み口を聞かせながら。
静かな空間に響くのは互いの微かな呼吸の音、項を捲くる折の紙の乾いた音。物語が進めば一言二言と言葉が零され、それに対する乱歩の相槌。
「……私があなたについて聞かないことに、何も思わないんですか?」
活字を目にしたままに彼女はぽつりと言った。そうであるなら乱歩とて活字から目を上げずに言うのだ。
「聞きたいことがあるのですか?」
「……いいえ」
返した響きはやわいもので、あまりよろしくはないことだが自身の身の上話を彼女に聞かせるのもやぶさかではないと今の乱歩は思っていた。転生やらなんやら、口止めされているわけではないないが一般人に聞かせるのは眉を顰められるそれ、それを問われたついでにちょいと聞かせてもよいと思ったのだ。大概眉を困らせ戸惑う反応だろうが、彼女のその感情の動く様を目にしたいと思ったのかもしれない。けれども彼女は首を軽く振って問いを自身へと投げかけることをせず、意識は活字へと戻ったようであった。それに少しばかりおもしろくないと乱歩は心に過ぎらせる。しかしそれまで、二人の読書は再開とされた。
鼓膜を震わす静かな音に心地良さを覚えながら、乱歩はちらりと横目に窺う。彼女は彼のそんな視線に気付くことなく物語を追っていた。その頬にかかる黄昏の色をじぃと見てから、乱歩は活字へと視線を落とした。意見を聞かせることを促しながら。
ぽつりぽつりとした会話は、宵を迎える前に途絶えた。残念なことに読書の区切りはよくはない。けれども空いた隣の席を見やる乱歩の唇は弧を描いている。残念なのは前述のそれだけだ、きっと明日もまた彼女に会えることだろう。彼にはそんな確かな自信があったのだから。
さて確か、乱歩の思う通りとなった。その次の日も彼女との時間を過ごしまたその翌日もと時を重ねたのだから。
依然として彼女の記憶は確かとしない。それでも二人で一冊の本を読むその間で知り得たことはあった、それは彼女の些細な好みであったりするので記憶に関することではないのだが。いやこれが探偵小説であるとすればそれもまた推理の糸口となる、けれども乱歩はそういった意味合いを含めずにただただと彼女のことを知り得たことに心を喜ばせる。
「年甲斐も無い、のかもしれませんねぇ」
どこか他人事のようにしていたが、彼とて気付いてる。まるで少年、青年の心持で彼女に恋心を抱いていることを。かつて妻子をもって没した身、それを思い浮かべながらも彼女のいない空間に小さく音を響かせるのだ。
どうとなりたいとは言わないが、いや言ってしまってもどうともできないもの。透けた肌、死斑が浮いているわけではない。けれども相手はどうも死んでいる、その事実に抱いた心が掻き消されることはないとはいえどうともできぬ。いや待てよ、自身とて一度没したものではないかと考えれば、と首を振る。どうにも都合がよろしい、この考えは。自身江戸川乱歩であろうとそのものではないと知っているではないか。であれば、彼女を生きた人にするというのは。
嗚呼、そもそもこれは袋小路。一つ路。恋心に浮いているのは自身だけ。
「……今日は、どなたの著書を勧めましょうか」
さて思いは他人事、一つを呟いてただ乱歩は書棚へと視線を向けるのみ。
またこれはとある日、朝も早くに侵蝕者によって穢れてしまった書物、通称有碍書に潜書していた乱歩が昼の辺りに戻った折の話だ。
襤褸切れとは言わぬが所々を切られ破かれた装いを纏った乱歩はその身を折るようにして歩を進めていた。まるで言葉にできぬほどに重い荷を背負ったように、進む。何ともないとは言えぬその状態の彼はよるべとなる本を補修されるべく、その室へと向かっている。一人ではない、傍ら乱歩の進みを補佐する青年の姿もあり、彼はそう乱歩をこの世に転生させたアルケミストに他ならない。彼の説明は、割愛させていただくとするが。
「…………」
頬に笑みの形は作っているものの、どう考えても乱歩は胸中笑んでいなかった。笑むとしたらそれは自身を嘲笑うそれだ。文学書を穢されるが如く、身をよるべを穢されれば気が滅入る。言葉の響きから感じる以上に、精神を蝕まれるのだ。故と、乱歩は重苦しく息吐く。酷く馬鹿らしい、見当違いだと己を罵る自身が内にいる。
室への道中、書棚を後背とした彼女の姿を乱歩は見た。けれどもそちらへと歩むことはできない。距離は縮まらず、離れていくばかり。それがどうも恋慕のそれにさえ思えてきて、視界霞ませてはふらりふらりと。
ほんの少しの間だが、記憶が無い。頭を満たしていたのはかねてよりそこを満たしていたものだ、尚更にそればかりで気付いたら寝台に横になり天井を仰いでいたような状況だ。よるべとなる本は補修された、けれども洋墨が馴染むまでには幾分時間がかかる。となれば未だ憂鬱の時は続くのであろうと、また一つ乱歩の溜息が零れる。
「乱歩さん」
呼びかけの声はまるで彼の溜息に追い縋るかのようであった。勿論、乱歩はその心臓を大きく跳ねさせ寝台よりその上半身を跳び起き上がらせたものだ。見れば、まじまじと見ればどうだ、自身が横になる寝台の傍らには恋心を寄せる彼女の姿があるではないか。平時であれば驚きつつも弧を描き笑みを浮かべる口がただに隙間をぽかりと空けている。それほどまでの心中驚き、不意を打たれた。これはきっと焦がれた自身が見せる幻である、そうと瞬きそれでも再びと呼ばれた己の名に乱歩はどうすればよいか分からなくなる。分からなく、結局は寝台へと身を横たえるを再開とした。
「大丈夫、ですか?」
大丈夫ではない、いや大丈夫であると答えよう。しかし何に対し問題があって問題が無いのか分からぬ、そういった心持であった。だから、気を紛らわせるにいつものあの場以外にも行動できる範囲があったのだな、いつから固定概念を持っていたのだろうかと考える。結局、考えが足らぬ浅はかであったと鬱としてしまうものであったが。
あぁ、と乱歩は気付く。返事の言葉を紡いでいなかったと。思って唇開けば、重い心持に添うようなことでしか出なくなる。
「昼は夢、夜ぞ現……。であれば、白昼にみるアナタは夢……」
これはそう、人でなしの恋、この世の外の恋。
後の部分は音にせず、自身の胸中だけに呟き乱歩は視界を閉ざす。心が疲れていれば体も手引かれるようにして落つるようだ、睡魔の誘いは寸の間に乱歩へと寄り添った。湖面に浮く舟の上の心地、ゆらゆらとしたものだ。夢か現か、乱歩は自身の頬に触れる熱を感じた。夢であろう、彼女が自身に触れることはできないのだから。そうであってもまことであると、意識を霞めさせていくのであった。
うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと。
そうであるかのように、ぱったりと。いやどれが実であったか乱歩にはよく分からなくなり始めていた。無理もない、彼女の存在を知っていたのは彼だけであるのだから。その姿をぱったりと見ることがなくなったからといって、彼女を見ていませんかと問う相手がいないのだ。図書館、司書室、何処へ行こうと彼女に会うことができない。穢されたわけでもないのに心はとっぷりと洋墨に浸されたようだ、鬱々としている。
例えば成仏、乱歩の脳裏に浮かんだのは。この世に未練が無くなったのだ、だからもういない。そうであるなら自分を未練とするように、仕掛けておけばよかったと。心の一つ、唇に遊ばせればよかったと。しかし、しかし、もう遅い。
乱歩の心が鬱々としていようとただ時間は経つのみだ。
月日はそう、幾分を過ぎ去らせた。乱歩の心に住まう恋慕のそれが消えたかといえばそうではない。焦がれはいつまで経っても消えず、むしろ思いは深まるばかり。ただそこに在り続けるばかり。
乾いた紙の音小さく立てながら、乱歩は書物の項を捲くる。彼は暫く潜書のそれを行っていなかった。ストライキと呼ばれるものではない、任されたことは確かとしてきた。事実は単純、此処に特務司書が今はいない為だ。それほどに月日が経ったのか、いやそういうわけでない。乱歩にとっては狂おしいばかりの月日であったが、一人の人間が天寿を全うする程ではない。初めに記したとおり、此処に在った特務司書である青年は身体が弱かったのだ。もうこれ以上は生命に関わると、その手前に療養と任を解かれた。それだけ。
危惧することはない、確か期間が開いてしまったが意味するところ文学書を守るそれを止めることではないのだから。日にすれば今日、後任となる特務司書を館長とした者が引き連れて来るはずだから。しかし聞くに、その者もまた病み上がりのような状態であるらしい。暫くを寝台の上で過ごしていたと。伝えられた際、それに僅かに片眉をぴくりとさせた乱歩ではあったが弧を描く唇はそれとしたものだ。アルケミストとしての力量は十二分に有している、病み上がりのそれであるからゆっくりと、やっていけばいい。やらぬ者がいないよりはゆったりとした歩みでもやる者が在るその方がよいと猫が言っていた。猫が人語を解していたことは、深く言及せずとしよう。
そうして乱歩は書棚と向かい合わせのままに通りより響く足音を聞く。館長である者のそれ、猫のそれ、もう一つが聞き覚えが無いものであるから、それが後任の特務司書のものだろうと。ぺらりと、項を捲くる。
「此処にいたか」
乱歩の後背にかかる声は館長のものだ。だとしたら、そう、自己の紹介が必要であろう。その傍らにいるであろう今日より世話になる司書への。鬱々とした心持、それでも聞かせぬ溜息で区切る。皆、心に仮面を被った変装者に違いない。自身の頬を笑ませる、さぁ聴衆に聞かせるぞと外套翻すのだ。
「エーどうも、江戸川乱歩で――」
けれども乱歩の声音は半ば途絶えた、それは如何にして。答えは単純にして明快、孔雀青の色した彼の眼には焦がれたその人の姿が映っているのだから。他人の空似、言葉が浮かぶ。けれども乱歩を見るその人の頬には、親しみの笑みが浮かんでいるじゃないか。一度、開けたままであった口を乱歩は閉じた。視線の先の人物、彼女が透けていないとじぃと見る。幾ら見ていようと、彼女を通して後景は見えてこない。
嗚呼と、乱歩は心で声漏らす。
「どんなにスバラシイと感ずるものでも二度とこの世に生まれるのはごめんであると、そう思っていました。だけれどなるほど、これだから人生はおもしろいものです」
どんな探偵小説よりもこの心を喜ばせることだろう、これからの日々は。そうと乱歩は彼のままで心より笑むのであった。