SS詰め1


乱歩/ご飯を青色にしておきました

 低く穏やか、ゆるりと紡がれた言葉にぎゅうぎゅう所狭しと並んでいた文字の群れから顔を上げる。私の鼓膜を震わせたその声音、知っての通り視線の先には江戸川乱歩、彼の人が在った。私の左目は彼の右目と見つめあい、右目はそのモノクル越しに左目と見つめあう。孔雀青の色がゆっくりと笑み、弧を描いていた唇はもう一度と音を紡いだ。
「ご飯を青色にしておきました」
 その言葉どおり、彼が私の視界眼下に用意したらしい皿の上のおにぎりはその青々とした様を見せている。嫌というほどに、真っ青で。
「……乱歩さん、食べ物で遊ばないでください」
「ふふっ、ちょっとした悪戯です」
「そうですか、驚きました。だからちゃんと食べきってくださいね」
 ただでさえ米は現在幾らあって足らぬという状況なのだ、食べられないと言って粗末にされては困る。
 青というのは食欲を失くす色合いだ。彼の瞳の色を深めに深めたような青は綺麗で、しかし米粒がその色を持っているというのは当たり前に違和感しか覚えない。じっとりと青色に視線を向けている私に、彼は皿を持つ手を右へ左へとしながら言葉を紡ぐのだ。
「食べますよ。さて、さてさて、では此方の握り飯の個数をご確認ください。多いでしょう? 食べきれると思いますか、一人で」
 なるほど、確かにおにぎりの数は少しばかり多い。視線で頷いた私を孔雀青の色が見ており、やはり彼の唇は弧を描くのだ。
「困りましたねぇ、これでは幾らあっても足りぬといった米を無駄にしてしまいます。しかしこの分量、ワタクシだけではとてもとても」
「…………乱歩さん」
「はい、何でしょう?」
「謀りましたね……!」
「ほほぉ……アナタはワタクシが謀を巡らせた、と? この程度、謀でも何でもないものですよ」
 しかしアナタは無駄にはしないでしょう。これも、ワタクシの気遣いも。
 そうと紡いで笑った彼に私はその青いおにぎりを食べぬという選択をできない。特務司書の職務に追われ、寝食を疎かにしているそれを心配されているということまで分かるのだから。
「けれどできれば、今度からもっと普通にお願いします。青いおにぎりを食べる機会を増やしたくないので。とてもじゃないですが、おいしそうには見えませんから」
「誰ぞと食べれば格別なものですよ。要は心持一つです」
 そうして一つ、とおにぎりを口に運んだ彼は僅かと頷く。
「ほら、美味しいものだ」
 倣い、私もおにぎりを口に運べばなるほど味は普通のそれだ。美味しいおにぎりだ。仄かな塩気がまた食欲をそそり、もう一口と促すものだ。頬張り、米粒が口辺に付いていることも気付かずに私は食べた。
 青い米粒が彼の指先に捕らわれ口内に運ばれるまで、穏やかな時間は過ぎてゆく。



乱歩/黄昏に恋情は香る

 乱歩の指の腹は特務司書である女の首元へと徐々に埋まっていく。ぐ、ぐぐぅと肉に沈み、それに比例するようにか細くなっていく彼女の呼吸の音を彼は静かに聴いている。別段、首を絞める行為に思うものがあるわけではないのだ、彼は。だとすれば何故乱歩が彼女の首を絞めているのかという話になるだろう、それもさして深い理由やりとりはない。ただに、彼女がそう望んだだけ。乱歩に首を絞めて欲しいと、それだけだ。
 首を絞めるでなく鞭で自身の肌を打って欲しい、それが最初の彼女の申し出であった。唐突も無い彼女からの言葉であったが、乱歩は常日頃から向けられる眼差しに既に察していたものがあったとみえる。動揺する素振などひとっつも見せず、ただゆるりとした口調で一間と空けずに返答を彼女へと与えていた。窓から差し込む黄昏色に染まった瞳が波紋広がる湖面に見えていようと、一つの返し。それがどういう返答であったかは察せらるることだろう、乱歩の指が今と触れるのは鞭のそれではないのだから。
 睫毛がふるると震える、乱歩は彼女の眼がほんの虚ろになる様を目元に影を落としながらじぃと見ている。観察している。指を少し動かせば彼女の喉の骨が指の腹にぐりりと触れるのが彼には分かった。さして、首を絞めるそれに思うものはない。
 彼女の願いを振り手一つに断らなかったのは至極単純、彼女の求めに応えたかった為。けれども鞭打つそれをはいとせず、それは如何にして。彼女に自身を刻められるとすれば、それは見える様が好い。鞭痕など、装いの下に隠れてしまう。別段首を絞める行為に思うものは無いけれど、そう、見える様が好い。誰ぞ一人と知らず察せずでは、聴衆のざわめきは聞こえてこない。それもそうだ、完璧過ぎる犯罪は陽の元へと出てはこない。完全犯罪など在りはせずとも。
 夕影が降りてくるまでもう少し、古書の香りに混じりてそこには恋慕のそれが香る。ただただ、乱歩の指先に纏わりついて。



芥川/紫煙

 秋の様は紫煙たなびく様に似ている。ちらちらと燃ゆるそこは熱いというに、煙は霞めて消えていく。じわりじわりと焦がれつつ、燃え尽き失ってしまうことのないこの心。煙草を吸うにと面を寒空めいた天へ向けると、一寸とて忘れることのできないその笑みが浮かぶのだ。じじっ、と草が燃えてはじれったいと訴えるのだ。
 芥川先生。
 そう笑み声で呼びかけてくる恋しい人が在るのだ。けれども口惜しい、互いの合間に恋う人同士の紐付きがないのであれば。例えば薄く色付いた頬が愛しいと笑みかけてくれるなら。例えば鈴を転がしたような声音が愛しみを以ってこの名を呼んでくれるなら。煙の味はこうも苦たらしいものではない。
 来ることはない、紫煙を纏わせることができるとて指先に掴むことができぬように。ただ恋う人は僕を翻弄し続ける。この思いを深めさせる。薬をめいっぱいに飲み下したかのように、ゆらりゆらりと沈む心は恋心と織り重なって。
 秋はこんなにも寒々しい、実ることない思いを携えたままの我が心。素知らぬ紫煙は霞めて消えゆ。



芥川/心中

 静かな呼吸を繰り返す芥川先生を見る、それは寝顔だ。先生のよるべとなる本への特殊な洋墨を用いた書き込み、補修はずいぶんと前に終わっている。かりかりと自身が書き込む合間に芥川先生は眠ってしまったのだろう、寝台にその背中を預けるまま。呼吸に胸が上下しているのを見て、穏やかな寝息を聞く。彼の寝顔はなんと綺麗なのだろうか。もちろん、眠っていない時とて彼の容姿が整っているということは分かっている。自身の眼差しに含んだ感情は半分の嫉妬、もう半分は知らぬ振りをしている恋心だ。
「芥川先生」
 小さく名を呼んでみても返事はない。それもそうだ、起こさぬように小さく、小さく呼んだのだから。それでいてこの人は私の気持ちも知らないでなんと穏やかに眠っているのかと理不尽に苛立ちを覚える。自身の身勝手さ、ほとほと嫌になると溜息を吐く。それでも視線を逸らすことはできない。眠るその人をずっと見続けている。それであまりにも微かな寝息に鼓膜をくすぐられたものだから、と言い訳、ふと気付けば私は芥川先生の喉元へと指先触れていた。
 男の人のそれだから、指の腹には喉仏の触りを感じる。少しだけ、ほんの少しだけ撫でるというそれをする。なんともいえない思い、溜息のようななんといもいえない呼吸のそれをただ私は吐いた。
「そのまま、絞め殺してくれてもいいんだよ」
 眼差しを閉ざしたままに突然芥川先生が声発したものだから、私は驚く他無い。眠っていた芥川先生に触れたことへの罪悪感、与えられた許可など右から左へと耳を抜けていくだけだ。慌てて触れていた手を引っ込めようとしても私の手はがっしりと芥川先生の手に捕らえられていて、相手の熱を感じては余計に焦りを募らせる。
「随分と熱心に僕を見ているようだから、待っていたら絞め殺してくれるものかと思っていたんだけどね」
 今からはどうだろう? そう言ってもう片手も自身の喉元へと触れさせようとするものだから、掴まれたそれを元に戻そうとしてもやはりと力強い。男の人だからと、当然と。
「そうも嫌がられると残念だ。じゃ、絞め殺すではない窒息死はどうだろう?」
「ちっそくし」
「うん、もしかしたら僕より先に死んでしまうかもしれないけど」
 それはいったい誰だと問わずとも芥川先生の眼差しは依然として私を見ていて、それでいて窒息死と再び紡ぎながら見ているのはどうやら私の唇で。
「心中も悪くない。さ、どうだい?」
 それとも煙草の味は嫌いかな、笑みはただただ罪深い。



春夫/口直し

 煙草を吸いにバルコニーへと春夫が出たのは必然であったが、そこで司書と出会ったのは偶然であった。深い夜の色に染まりながらの仄かな灯火は、春夫の目的と同じ。彼はその時初めて司書が喫煙者であるということを知った。転生の後にやたらと利くようになった眼は彼女が紫煙燻らすさまをよくよくと春夫に知らせる。煙草にかかる指先の細さや肌の白さ、ふぅとした音に細く吹き出される煙。長々と視線をやる後に司書の唇が笑み、そこで春夫は自身が彼女を見過ぎていたことと己の存在に気付かれたことが分かった。
「春夫さんもですか?」
 夜に響かないように小さな音で紡がれたそれに、彼女の指先のそれと同じものを見せるようにしてそうだと知らせる。バルコニーの手摺り、凭れ掛かっていたそこから彼女が僅か横にずれたのは明らか隣へとの誘いだ。春夫は思うものをその胸に過ぎらせ、そうであっても動作何一つ不自然無くその誘いに応じた。
 見れば、彼女のもう片手はマグカップを携えている。
「助手くんが淹れてくれたんですよ」
 春夫の視線に彼女は言う。付け足し、淹れてくれた珈琲はありがたいがどうにも甘過ぎると笑う。それに春夫は、なるほど口直しに煙草を吸いに出ているのだなと頷いてみせる。そうして煙草を吸うにフィルターを唇咥え、僅かどきりとする。自然な動作、彼女は自身の咥えている煙草から春夫のそれに灯火を移そうとしたのだから。
 動揺とした様子は夜の為に彼女に気付かせていないだろう。また、春夫の心の動きも。今の今まで、司書に対してどうといった感情はなかった。それは弟子達に対するそれと同じだ。気付いていなかったという場合もあるだろうが兎も角、そういう気付かせはなかった。けれどもどうだ、近い距離、睫毛の描く妖艶な様や鼻先を擽るどこか甘い花のような香りにくらくらとするではないか。
 彼の動揺、けれども貰い火は上手くといったようだ。成功に小さく笑み声を漏らした彼女に春夫は指先をぴくりと小跳ねさせてしまったが、気付かれてはいない。
「春夫さん、お体の方はどうですか」
「特に不便無いな。悪いな、気にかけてもらっちまって」
 ぽつりぽつりと会話、僅かに沈黙の時があったとしても気まずくはない。むしろ穏やかな夜が互いの合間にあることに安心としていた。隣同士、同じように手摺りに凭れ掛かり夜の空へと紫煙燻らす。指先携えていたものを吸い切ってしまえば次を取り出し、相手からまたと貰い火。夜が深まっていく。
 ずいぶんと時間が経ったのかもしれない、ゆるりとしたものでも。どちらともなく今宵の仕舞いを感じ、最後彼女はマグカップに口付けた。白く喉が浮いて、珈琲を飲み干しているさまが窺える。
 ふぅと息づくそれに春夫は彼女のその唇がつやと濡れているのを見、どきりとした。それと同時に苦い笑いだ。
「口直しに煙草を吸ったんじゃなかったのか?」
 それではまた同じだろうと、そう投げかけた。それでぐいと襟元引っ張られたのは春夫の方だ。油断、彼は彼女の力のままに前のめり。それを待っていたかのように彼女の唇はぶつかった、春夫のそれと。
 驚き眼を見開き、それで彼女の舌がぺろりと自身の唇を舐めてくるもので。眼と眼は互いに見つめあっている。春夫の出方を窺っているようだ、それはまるで。春夫は彼女が後ずさる、そんな気配を察した。そうであるならと彼は彼女の腰に腕を回すしかない。貪るように、唇を合わせるしかない。舌と舌を絡めあわせ、深まっていく夜に音響かせると。珈琲と煙草、甘さと苦味。
「確かに甘過ぎる珈琲だ」
 唇を離して、それでも相手の唇に吐息を触れさせながら春夫は笑った。夜は更けているが、未だと朝はこないのだと。