ポセイドン/海の神とあなたの些細なシーン
海面を駆ける風はその歩みを緩めた、その凪いだ世界にゆるりと泳ぐ金色は海の神、ポセイドンの前髪だ。
ときおりに遮られる浅瀬の色の眼差しは、彼特有に目付きは険しいとも海の底砂を窺えるほどに静まった海を思わせる穏やかさを抱いていた。
慈しみさえ孕ませたその眼差しは偏に唯一だけに向いている。
その唯一たるあなたは、海に見守られるようにも潮鳴りの合間に笑み声を零していた。
波打ち際に遊ぶその脚が悪戯に跳ね上げた海水の珠露が、陽光を浴びてはきらきらと寸の間宝石と成って、そうして海へと帰っていく。
あと幾分の後、波に足を取られたあなたを抱き支える海の神の姿が在り、今も後も、寄り添い合うその姿が続くことだろう。
ポセイドン/執着
海底から見やった夜空というものは、水面に月や星の光が僅かにこぼれているものの、暗かった。遥か離れ、それでも確かと存在しているはずの夜風も虫のさざめきも海中にいては感じるはずもなく、耳に纏わり付くのは彼女自身の心臓が打つ音に管の中を駆けゆく血潮の音でしかない。何も聴く必要が無いとばかりに海そのものに耳を塞がれているようだ。或いはまさに、その通りである。
「赦さぬ」
海の神は極めて侮蔑すべき者へと言うようにも口にした。しかし、何処までも欲するものを乞う時のような聲であった。統べる大海を宿したようなその眼差しの色に心を奪われ、そして互いではそれと気付かない程度の拗れは、いっそ、海面に辿り着くこともないあぶくである。無論、弾けるか掻き消えるか、差し障りも無い。
ポセイドン/ほっぺ、その後
「ポセイドン様、」
本へと落ちた眼差しの傍ら、些細に流れゆれたポセイドン様の前髪がその頬をくすぐったことに思わずと零れた私の声。ゆったりとした瞬きは、当たり前のように眼差しを私へと向けるようだった。天色のその眼に、波のヴェールが幾重にもやわく自身へと折り重なっていくような心地になり、穏やかでもありこそばゆいような羞恥が熱となり仄かに頬に集まっていく。そうして身動いだ私に、ポセイドン様は眼差しに寄り添わせて問いかけてくる。
「妬いてしまったのかもしれません」
「……本などにか」
「いいえ、貴方の頬を掠めたその髪先に」
ふっ、とポセイドン様が笑うものだから、真っ正直に答えてしまわなければよかったと思うのだけれど、一度喉から世界へと飛びでた私の返事というものはなかったことになることはなくて、くつくつと笑いだした彼のそれが仄かな細波のようにも私の身体を震えさせ、もうどうにもできない心持ちになった。
「嫉妬など……余の膝を枕になどできるのは、お前だけだというのにか」
私の頬は、朝焼けに濡れた海面のようにもみえたかもしれなかった。
照れ隠しにもなればいいと、ポセイドン様の頬を両の手で包み込めばそれはきっと、欲しがるさまにしかなっていなかったことでしょう。
──この神は、存外凪いだ一面もある。私の髪を梳く指先の慈しみの深さ、唇を掠める吐息に含まれた愛しみ。少しずつ奪われる酸素に溺れながら、指先でポセイドン様の髪をその耳へとかけると、波は自然の摂理のように強くなっていくようでした。
ロキ/嘯く
ぱちり、ぱちり、弾ける。それは星が消失する様子にも似ている気がするなぁ。核と成るそこは明明と燃えている、見透したところに在る君の心臓にも似ている。或いはそれそのものかもねぇ。
さておき、紅く、或いは黒く、点滅するように入れ替わり立ち変わるそれは足掻きなんだろうな。息も絶え絶えといったような、生と死にキミは喘いでいているようでその喉元から響き渡る音律はきっとどんな技術を統べたオルゴールをめいっぱいに開けて並べても敵わないと思うと、たぶん、それは愛おしいってことになり得る。早合点したのは、どっちかな、冗談と嘯いてみたのは。
掻き消えたりするかなあ? フーフーと吹いてやろ、掻き消えるか、いいやそれは灯火の糧と成るだろうね。そういういじらしいところが、キミのいいところさ。つまりは、僕はそこのところを好きだなって思ってるんだけど、それはそれとして、酷く縮こまるその灯火が僕をわっくわくさせてくれるのは本当のところさ。
嗚呼、キミがそうも生に足掻いてる様が、こんなにも愛おしい。
ボク以外に吹き消されたとしたら、冥界のその先でも呪い罰し、苛んでしまおうかと思うけれど。
いいや、冗談さ。
ボクがきみにそこまで執着するだなんて、思ってないでしょ。思ってないなら、おもしろいね。
そういう、ことかもね。
ロキ/ほっぺ、その後(捏造ギリシャのトリックスターちゃんもとい悪友夢主ちゃん)
「ロキちゃん、」
指の形を狐だか狼だかに形作って、不意を衝くように彼へと呼びかけた。そうすれば獣の鼻先がほっそりとしたその頬に突き刺さる心づもりで、私の頬はにんまりと吊り上がる。
はたして悪戯が成功したかと言えばまぁ、笑んだ頬と裏腹心中でお口をあんぐり、驚いたそれの通りで。
「ぁ、奪っちゃっ、た……?」
獣の鼻先にロキの頬は掠めたけれど、行き過ぎ。彼の唇の端にぶつかったりなんかして。
ぶつかった唇は笑みの形のままだっていうのに、或いはお互いに笑みと笑みをぶつけあっているというのに数秒の沈黙がぷかぷかと浮いている。
そうして沈黙を退けたのは、彼の方だった。あはッと笑ったロキの眼は、とても楽しいことを見つけたというやつで。
「奪われちゃった! なら、奪い返してもいいってことだよね?」
さて、獣は容易に彼の手中にとらわれて。
──ひどいめにあった、舌がひとまわりは小さくなった気がする。唇はひりひりとさえするような。つまり、北欧のトリックスターにちょっかいを出すと大変なことになるということだ。満更でもないんだけれど。
アダマス/その夫妻、歪にて
「ご機嫌麗しゅう、お義兄様」
するりともぬるりとも柱の影から姿を表したその女神と、片頬を返り血でべったりと濡らしたままの海神の様子、それを跪いた儘にもヘルメスは窺っていた。これはまた面白いことになりそうだと思いながら、垂れた頭をそのままに事の成り行きを心中ではわくわくと待ち受けている。
「夫が、此方に来ているでしょう。お迎えに参りましたの」
「…………」
対峙しようと勿論、ポセイドンの眼差しは先の女神の眼差しと一致することはない。それにどうにも、その女神とて最初っからポセイドンの姿を見ているわけではなかった。お義兄様と呼びかけながらも、その眼差しはポセイドンの肩先その向こう側をじっとりと見ていた、壁に広がる亀裂と血肉の大輪の華を。広間に漂う空気に耐え切れぬともいうようにべっちゃりと落ちた肉片が床にぶつかった、それをゆったりとした瞬きでおさめたようだった。
僅かにトライデントがキシ、と鳴いたようにも思えたがそれを遮るようにもその女神は自身の頬へと片手を寄り添わせて言う。
「嫌ですわ、ただお迎えに来ただけですから。土産のひとつも持たせなくて恥ずかしいのですけれど」
そうしてカツカツと歩み、すれ違った二神、そこには何もありはせず起こることもなかった。
「ヘルメス、手伝いをして頂戴な」
「……ええ、よろこんで」
ポセイドンがその場からいなくなったことを残念がりながらもヘルメスはその女神へと形ばかりの笑みを向けた。
女神は分断された夫──アダマスの丁度中間地点を眼差しにやって、少しだけ呆れたような表情を浮かべる。
「本当に愚かで、救いようのない神」
そう言いながらも眼や唇には底知れぬ愛しみ、執着が抱かれ漂っていることに、もしかしたら後日面白いことが起こるかもなどとヘルメスは少しだけ心を湧かせた。
「ふふ、上と下、どちらを連れ帰りましょうか」
「おや、お酷い方だ」
「あらやだ冗談よヘルメス、ちゃんと両方連れ帰るに決まってるじゃない。ちゃんとこの神の全てを好いているのよ」
「どちらにお運びします?」
「ええそうねハデスお義兄様のところへ、腐っちゃう前に。腐乱臭が移っちゃあいやでしょう、閨で」
「惚気られてしまいましたね」
「あら序の口よ、聞き飽きないで。冥府は遠いんですから」
アフロディテ/求める
酸化した血液のようにも赤黒い液体が注がれたグラスはまるでそれがひとつの牢獄でもあるようであった。扉は開かれている、けれどもそこに自身より身を寄せる金色の月が逃げることはないようにも。
ワインの水面に揺らいだ月を喉奥に流し込み、苛立った感情の儘の吐息は構わずと吹きだしたその唇はひとつ舌を打った。
「アフロディテ、アフロディテ、いつになったら貴女は私を受け入れてくれる」
下唇に僅かに滴ったワインを拭い、それをルージュにもした神は今宵の月にまったくもって劣らぬぎらぎらとした赫きを眼差しにその女神へと問いかけた。
いっそ獣の前に身をしなだれさせているようにも月白色のベンチに寛ぐその女神、呼ばれた通りにアフロディテはタブレットにも似た端末でその眼差しを遮るようにして、ただこの夜に横たわった静寂に添う。
「アフロディテっ」
水飛沫のようにも声音に感情、チェアに沈めていた臀部を跳ねさせた神に今度ばかりは女神も遮るばかりをやめて、まるで初夜を終えたかつて乙女だった者のようにベンチから脚をするりと降ろそうとする。
そうすれば先ほどまで苛立ちを臓腑に溜め込んでばかりいた神も、そのなんにひとつの傷も損ないもありはせぬ肌を穢してなるものかと急くようにして女神の身体を抱き上げた。
少しだけ安堵の息を零して唇を開こうとすればそれはもちろん、幾度と繰り返されてきた乞う言葉であろう。しかし、
「喋っちゃダメよ」
ゆるりとも女神の指先は、ワインを乾かしたその唇にひたりと寄り添った。
「手に入らないからこそ、求めてしまうのよね。執拗に」
美しくも眉を困らせて、唇は仄かに歪む。
そこに在りはしないものを得るようにも舌に掬いとる。より執着に身を浸しているのがどちらであるかなど、いっそ、神ですら分からないものであった。
釈迦/お釈迦様と幾度も彼に助けられた蜘蛛である子のお話(蜘蛛ちゃん夢主)
「──と、ゼウス様からお受けしておりますわ。ゆえ、明後日は何方かへ御歩きに赴かれるのはおやめください。明日はお好きになさっても構いませんのですけれど」
釈迦の眼差しは、そちらへと向いていた。眼差しを向けられている彼女といえば、その視線を手帳へと落としているために彼と目が合うことはなかったものだが。
「釈迦さま、聞いておられますか?」
手帳から上げられた目線、ここで釈迦と彼女の眼差しは一致した。とは言っても、背の関係上、釈迦は彼女を見下ろし、彼女は釈迦を見上げているものではあったが。
「ゼウスちゃんが来るからどっか行くなってことでしょ、了解」
「理解なさっているのなら、よろしいのですけれど……。あの、釈迦さま……?」
「ん?」
最後まで言われずとも、彼女の困惑のゆえを釈迦は解っていた。解ってはいたが、だからといってそのままに与えてやることはないと、僅かに傾げた小首はその通りだ。
「僭越ながら、その、この手は……」
それは彼女の言葉の通りに、彼女の頭部に置かれた、釈迦の手だ。
「や、いい子だなって」
「はぁ、いい子……わぁ?! おやめになって! 蜘蛛の巣状態に成ってしまいますっ! 踠いたすえ逃げられた、そんな感じに……!」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。はい、いい子いい子」
「おやめになって……!」
彼女の髪を掻くようにも撫でる釈迦の口元で飴はかろりと鳴った。
『──そうです、幾度も幾度も助けられた蜘蛛で、御座います』
とある昔の事を思い出しながら、呟くようにもぽつりとまた、いい子と言いながら彼女の頭を釈迦は掻き撫でるのであった。
釈迦/ほっぺ、その後(蜘蛛ちゃん夢主)
「釈迦さま、」
頬に菓子の屑が、そう言葉を続けるつもりの私の唇というのはそこで紡ぎをやめてしまいました。というのも、そうとするつもりがひとっつもなかったのですけれど、私の指先というのは釈迦さまの頬にやわく埋まってしまったものです。私の爪先がその肌を傷つけやしていないでしょうか、意図したことではないとはいえ不躾も過ぎるのではないかと思っているのは脳裏の大変四隅、片隅もいいところで御座いました。偏に、指先を埋めらせたその頬の言うに言われぬ感触が如何せん煩悩をふつふつとさせると申しますか、こうも指の腹に心地の好いさまを知ってしまいますとその裏っかわ、秘めておりますところを知ることへの追求心というものが血潮を流れまして心の臓をとくとくと打たせるので御座います。
「もしや飴玉に成ることこそが終着点であったので御座いましょうか」
「いや落ち着きなよ」
釈迦さまのその声色に、いえ決して御怒りになられている響きではありませんけれど、その声色にハッと理性を手繰り寄せたようなものでした。羞恥心に繭にでもくるまってしまいたかったのですけれどひとまず指先を、手を引くことから取り掛かろうとしました、私は。私の手というのは、帰ってくることはありませんでした。それは釈迦さまが此の手を取ったゆえで御座います。
「飴に成りたいんでしょ? 任せなよ」
そうして、私の手、その肌に釈迦さまの吐息が触れたかと思いますと……。
──そこから先の記憶が在りません、ただ、輪廻転生するかと思いました。きっとそういうことで御座いました。