さて、甘いようにも肺におり重なる空気というのは極楽浄土にただよいます気体のそれで御座います。ひと息ごとに肺を濡らすような水気の錯覚はかたわらに在ります蓮池の為で御座いましょうか、偏に、お釈迦様とその御方に付き添う女人のおふたりを風は撫でてはしります。蓮池にぷっかりと浮かぶ蓮の、真ん中にちょっこりある金色の蕊を揺らすそれと同じ風でありました。それがおふたりのおぐしや肩先を撫でては何処へやら、極楽浄土を闊歩闊歩と参ります。
 小舟を漕ぎますさまはその女人のゆらりゆらりと揺れる頭で御座いまして、指先まで纏わせた装いのそれとしましては時折に紅の引かれた唇を隠します。呼気のそれに湿るほどでは御座いませんが、小さな声音と共に染み入ります。極楽は丁度、朝で御座いました。
「キミさ、眠いんじゃない?」
 お釈迦さまが問いかけます。向けられた顔先と、そのやわらげな問いかけの唇の合間からは飴を食んでおりますゆえか、何処となく甘ったるい響きも伴って吐息が漏れておりますので、その子といいますと装いにて隠した先にて、その唇よりの欠伸を耐え忍んでおりました。
 果たしてけれども、彼女が双眸を確かにお釈迦様に眼差しを返せたかと言いますと、決してそうではありません。
 悪戯にも、お釈迦様の手というのはその女人の髪を梳くようにもしておりまして、その心地というのはまさに極楽浄土と言うに相応しいと申しましょうか、兎にも角にも、やはり、彼女の睫毛はぱちりぱちりと指先を手招くようにも触れ合いながらそうして、眼差しは瞼の下にかくれんぼうをしてしまったようで御座いました。
「ん、ほんとに寝たの? 危なっかしいんだけど、ほんとに寝ちゃったわけ。……おねむ?」
 壱と弐と参と、問いかけながらもお釈迦様の指先は彼女の髪を梳いてやみません。もしかすると、その問いかけも問いかけと申しますよりは確認する為のものという他ありません。けれどもやはり、おふたり、その片方が眼差しをとざし、すぅすぅと寝入っておりましても極楽の蓮池の蓮は少しもそんなことに頓着致しませんから、お二人の合間にはやはり変わらずにあの、蓮池の甘ったるくも瑞々しいかおりがただよっているので御座います。
 ぴぃひゅぅと北風は吹きやしませんが、お釈迦様はその御身体に装いしヴェールを徐に御手に、そうして側へとかけるようで御座いました。絹よりも滑らかで指の腹に心地いいそのヴェールは髪を梳くよりも優しいさわりを持って彼女の肩先を撫でます。そうとするお釈迦様の口辺と言いますと一等に愛しきものへ向けるようにも笑んでおりますので、もしかすると、蓮池のましろな蓮のどれか一輪は朱色や紅色に染まってしまったのかもしれません。
「それ、オレの側にいる時だけにしときなよ」
 蓮池の蓮の花弁、そのお首がゆれました。極楽浄土に住まう蜘蛛がその花首よりぴょんと飛び降りたのかしらん、そのようにも。
「……びみょーなとこだけど、ほんとは」
 何方かの蓮の葉の上の朝露と言いますところろと転げます、それは不敬かしらんと思いながらもちょいとばかり笑った様子に思えまして、お釈迦様の歯とそうして飴玉が打つかった音がかろりと鳴って、蓮池の蓮たちがそよぐさぁさぁとした音に混じ入るようで御座いました。
 ふわぁとひとつ、お釈迦さまが欠伸のような真似事を致します。寄りかかられたそれを、その花の首が折れることなどあってはならないと言うようにも支えまして、極楽浄土の甘ったるい空気を肺に満たしておられます。極楽は丁度朝では御座いましたが、そうしておふたり、朝露に濡れながら、蓮池のふちにてうたたねに興じておりました。そのような、たわいもない、おひとつの話で御座いました。