或る日の事、と言いますよりいつもの事で御座いました。釈迦さまがふらりふらりと何方かへ赴きになっていらっしゃるのは。
今日はヴァルハラのとある木陰にてお休みになっていらっしゃるのでしょうかと思いましたが、極めて細い糸が伝えてくる震えで御歩きになっていらっしゃるのが分かります。
極めて細い糸と申しますのは、蜘蛛の糸で御座います。言葉の綾では御座いません、それは、これは、まさしく蜘蛛の糸で、私の糸で御座います。
二本の腕で糸を回収しながら、二本の脚で釈迦さまの元へ歩む私と申しますと確かに人の形をしておりますが、蜘蛛でありました。もしかしたら、蜘蛛と称すると誤りであるかもしれません、私の本来の姿と言いますとちょうどアラクネさまと同じ、上半身は人で下半身は蜘蛛のそれで御座いますので。
けれどもやはりこの日中の私の姿と言うのは人の姿です。それがどうしてかと申しますと、偏に、好いた方と同じ姿でいたいという恋慕のそれでしかないでしょう。そうして勿論、私の好いた方と言いますと釈迦さま、その方に他なりません。この糸の先におられる、その方に。
糸を辿っておりますと、鼻先は少し甘ったるいような、それでいて濡れた空気を感じました。ふと気づいたように辺りを見るとそこは極楽の片隅で御座いまして、朝霧の合間に蓮池の水面がほのかにきらりきらりとしています。また、輝くのは水面だけでは御座いません。池の中に咲いている蓮の花はみな、玉のように真っ白で、これもまた朝霧の前垂れの合間にもきらり、きらりとしてみせるのです。
ましろの丁度真ん中にある金色の蕊から漂う何とも云えない好い匂いが、蜘蛛ではなく蝶であったなら、蜜を啜ることで生きられたなら、といっそどこか陰鬱な気持ちを引き連れては来ましたが首振りにて拭います。仄暗いのはいけません、極楽は丁度朝なので御座いますから。
幾つかの小さな蓮池を後にして、この先には一段と大きな蓮池が在ったなやら、その蓮池はたしか覗き眼鏡のようにも地獄の底が見えるはずやら、そんなことを考えながら辿る糸の残りの長さを感じておりました。
そうして確かにその通り、釈迦さまはその池のふちに御佇みになって、水面を覆っている蓮の葉の合間から下の様子を御覧になっておりました。かろり、とも鳴ります、釈迦さまの歯と飴が打つかったそこから。ふつり、とも蜘蛛の糸は途切れます、釈迦さまと私の合間でただよいますそれは。
その顔は何処か、憂いを抱いているようで御座いました。
「ん、おはよ」
「お早う御座います、釈迦さま」
釈迦さまの色眼鏡に反射した光が僅かに私の目を細めさせました、視界が狭まるほんの微かな間に些細にも貴方さまの御姿が遮られるのは頂けないことでは御座いますが。
「もしかしてまだ眠いの?」
「ええ、夜行性なもので」
憂いなど何処にも無かったかのようになさいますので、私とてそうと致します。また、此方に来ると少しばかり調子が悪いのは嘘では御座いませんでした。
「或いは、極楽に来るとどうにも眠くていけません。何度目かの流転の合間に、寝過ごして転生が遅れたのを思い出されます」
「蜘蛛ちゃんそういうとこあるよね、抜けてる」
「輪廻など、成れることはありませんでしたね」
釈迦さまは、唇で少しだけ笑われたようでした。
蓮池からきらりとした光が漏れました。それは何も其処に鯉などが泳ぎ、鱗が光ったものでは御座いません。光ったその底と言いますと、丁度針の山でしょうか。何方を御覧になっても真っ暗で暗闇ばかりでありながら、血の池に咲く針の山は時折にぼんやりと浮かび上がるようでした。その針の山の針の鋒が不意に私の眼差しを奪ったことでした。
其方に意識を向けるのは好ましくないことであったと存じます、きっと。
私は眼差しをちろりとばかり向けただけ、ではあったものですが、釈迦さまが僅かに遅れて眼差しを追わせたのはやはり、好ましいことではありませんでした。
「犍陀多」
それは私に聞かせるものではなく、独り言つ響きを伴ったものでした。けれどもその後の「知ってる?」と申します言葉は確かに、私に向けられたものでした。そうして、私は首を振ります。釈迦さまの御予定を書き留めた手帳を開いても、意味をなさないということは解っておりました。
「蜘蛛ちゃん、糸借りていい?」
「──ええ、どうぞ。その糸はもう、釈迦さまの物で御座います。貴方さまの思う通りに」
釈迦さまは多くを語りはしませんでしたが、それゆえに私が断るということは御座いません。唯々、釈迦さまの思う通りに。
何を以って釈迦さまに名を紡がれたのかひとつも気にならないと申しますと嘘になりますが、そうしてその顔を僅かにも陰らせていたものが御考えによって仄かでも浮かばれますと、それが私のさいわいであるということです。
釈迦さまと私との合間で一度は途切れた蜘蛛の糸、その銀色の糸はそうして、釈迦さまの指先に在りました。
御手に御取りになった蜘蛛の糸を、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄のそこへ、まっすぐにそれを御下しなさいました。
私は釈迦さまの横顔を、眼差しを、指先を、そうして糸の先を見てはひとつ、吐息を零します。
蜘蛛の糸は、どんな暗闇の中でも光ります。けれども極めて細いその銀色の糸と申しますと、まるで人目にかかるのを恐れるさまで御座いますから、闇夜に浮かぶ金色の月に成りはしませんでした。血の池に泳ぐ罪人の手元、或いは表情を明るく照らすことはなく、それでもするすると垂れていきます。
今は私の身体の延長線に在りはしませんので、地獄にそよぐ糸の震えを感ずることはありやしませんでした。勿論、感じぬ震えが心を寂しくさせるのはそよ風などよりも、釈迦さまの心の臓やら管の中を流れる血潮の音が糸を通じて伝わってこないということばかりでしたけれど。
「あら」
思わずと零した声は私のそれです。
少しばかり考え事をしていた為に、その丁度の瞬間を見てはいませんでしたが、釈迦さまの指が垂らした蜘蛛の糸のそのずっと先、極めて細いその糸にしがみ付いている者がありました。たぐりのぼるその姿を眼差しに私は、あれが犍陀多という者かしらん、糸にぶらさがる姿は蜘蛛にも似ているやも、などと脳の片隅で思いつつも大凡では別のものをみていたように思います。
例えば糸は釈迦さまの指先で、その指先にてすくわれたのは蜘蛛の私で、水の溜まりをあとにしたその記憶で御座います。
やはり、極楽というこの地におりますと調子が狂って仕方ありません。
ゆったりとした瞬きをひとつに、垂れ降ろされた蜘蛛の糸の先へと意識を戻しますと、犍陀多、仮では御座いますが犍陀多ということにしておきましょう、その者は随分と精を出してたぐりのぼったようで、幾分血の池を遠くに地獄の空に僅かばかりに近くなっておりました。
さて私には何を仰ったかは存じませんが、犍陀多は言葉を口にし笑ったようでした。けれども、眼差しを下へと向けてみるとその笑みも消えるというもの。ぽっかりとあけられた大口と申しますと、地獄の釜にも似ておりますでしょうか。
犍陀多をぶら下げた蜘蛛の糸はそうしてその先にも数限りのない罪人たちをぶら下げ、時折に地獄の宙にゆれてみます。
私の蜘蛛の糸と申しますと確かに極めて細いものです。けれどもそれが見目通りにぷつりともやるか弱いものかと問われれば、そうですよと仰るものではありはしませんでした。そうしてけれども、その糸はもう、私のものでは御座いません。偏に、釈迦さまの蜘蛛の糸で御座いました。
極めて細い蜘蛛の糸は、これ変わらずとそよいでいます。
私は釈迦さまの横顔をちらりと眼差しにして、そうしてやはり同じように糸の先へと向き合います。
果たして、そのいとは。
さて、犍陀多がどうにも喚きます。糸は、釈迦さまに伝えます。
「あ」
と、漏らしたのは私だったでしょうか或いは犍陀多、その者であったでしょうか。ぷつりとなった蜘蛛の糸に、そのようにも声を漏らしたのは。
後には蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりで御座いました。
短く途切れた蜘蛛の糸は、その先など在りはしないというように蓮池の水面へと細く浮かんでおりました。銀糸は時折に眩く、泳ぐ魚の流れのようですがやはり蓮池には鯉の一匹もおりません。蓮の葉の合間に、ひとすじの蜘蛛の糸が浮かんでいるに他なりません。
極楽の蓮池のふちに立って、一部始終をじって見ていらっしゃる間の釈迦さまのご様子は依然としてなんらお変わりがありません。丁度此方に来た時に窺い見た憂いなど、端から私の思い違いでありますように。
「蜘蛛ちゃんはさ、人類は滅亡した方がいいと思う?」
私が蓮と水気の甘くくぐもる空気で肺を満たしている合間に、釈迦さまは御尋ねになりました。
「その問いは些か、困ります……。私の蜘蛛としての死の幾度かは人によるものですし、そうして幾度かを助けられたのは釈迦さま、貴方さまが人であった時も御座います。ご存知の通りに」
踏み込み眼差しを向けたのならば、蓮池のそこには今も地獄の様子が窺えるのでしょうけれど、そうする気持ちにはひとつもなりはしませんでした。
「人は確かに、愚かで御座いましょう。ゆえ、滅びもまた施しかと」
釈迦さまの歯に打つかった飴のかろりともした音が少し、耳に響くような心持ちで御座いました。
「──けれども、私は、救いのその手を知っています。釈迦さま、私は確かに、貴方さまに救われました。ちっぽけな蜘蛛としての幾度もの輪廻でも、蜘蛛としてのその枠を超えた後でも、こうしているうちでも、幾度も」
水の溜まりに溺れる私がすくわれ見た、水中をぬけた先の青い空と人の子の笑みというのは、何がどうあろうと、私の中から消えうることはありません。
「……これは、いけませんね。答えになっておりません……」
「正しい答えを出せって試練でもないんだからいいんじゃない、別に」
徐に飴をがりりとやった釈迦さまは新しい飴の包みをぺりりと剥がしながら、御歩きになり始めました。もちろん、私はその背に着いて参ります。
幾分も御歩きになられていないそんな時です、歩みをとめ、振り返られたのは。
「てかさ、ラグナロクの開催が決まったじゃん」
「はい。あら、お出に?」
「そ。で、オレさ……人類側から出ることにしてるから」
何のことはないと、そのような響きで告げられましたそれは。
「──ご武運を御祈りしますわ、唯、なにひとつ変わることなく」
何もラグナロクの仕組みを解していないわけでは御座いません。
釈迦さまが釈迦さまであろうなら、なにひとつ厭いが在りましょうか。
「あー……、」
釈迦さまはなんと申しますと確かな表現か分かりかねますお声を漏らしますと、ほんのばかり在った釈迦さまと私との距離を埋めたようでした。そうして、
「おやめになって……! 蜘蛛の巣状態になってしまいますっ……! 獲物を逃した悲惨な巣ですわ……!」
乱すようにも掻き撫でられる私の頭というのは、何も初めてのことでは御座いません。ですから、このようになされると本当に、乱された蜘蛛の巣の様子になってしまうと申しますのに、釈迦さまは一向におやめになりません。
「キミのそういうとこ、嫌いじゃないよ」
「──ッ! 釈迦さま、お慕い申し上げております。末長くお側において下さいまし……!」
「またそれ? いつも言ってんじゃん、好きにしなって」
最後に大きく掻き撫でた釈迦さまの手に、私の首は、頭は大きく揺れます。視界の端に未だに在ります蓮池の蓮も未だに在ります。
極楽の蓮池の蓮は、罪人も、蜘蛛も、くものいとも、少しもそんな事に頓着致しません。その玉のような白い花は、釈迦さまの御足のまわりに、ゆらゆらと蕚を動かして、その真ん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れております。
嗚呼そうだ、極楽ももう午に近くなったので御座いましょう。