天界にも落ちる陽光に晒され眩い彼女の水銀色の髪というのが、目を閉じも細めもしなかったロキにとっても眩しいものではあった。
 テーブルやその卓上に乗った茶器やケーキスタンドなどを挟みながら彼女と対面しているロキ、その側では鶏の鶏冠にも似た連なった紫色の花弁、それがゆらゆらと花瓶の中で揺れている。
「──それでその時オジ様がさぁ」
「よくオーディン様にそんなことできるよね、私でもそんなことできないよ」
「どの口が言うのさ」
「か弱いワタシにできることなんてポセイドンさまのトライデントをちょこっと拝借して海神ごっこするぐらいなのにー」
「ポセイドンさん相手にそんなことしてる時点で同じ穴の狢だよ、ギリシャのトリックスターちゃん」
「うるさいな北欧のトリックスターちゃん」
 ロキの唇が言う通りに、彼と向かい合った席で今、フォークを持ちスコーンを分割しにかかったのはギリシャのトリックスターと呼ばれる身であり、立場としては大海の暴君、海の神と呼ばれるポセイドンの眷族である女神であった。
 女神と言っても、トリックスター、異なる二面性を持つ者をそう呼称することが多いように、「嗚呼、うるさい」と繰り返す唇はロキのそれに似たようにおもしろげに吊り上げられたそれだ。
 二神はいわゆる、悪友でもあった。
 ギリシャと北欧、場所は違えど同じようにトリックスターと呼称される二神がどのようにして交流を持つようになったのか、それを語るは今この場ではないにしろ、ロキ手ずからに席を設け、紅茶を淹れ、今は彼女のティーカップへと注いでみせたそれから、まったくの他人(他神とも言うべきか)ではないということが窺い知れる。
「最近ペーガソスと人間との間に生まれた子にお熱ってほんと? 酔狂にもほどがあると思うんだけどなぁ、だってアレ、雑種にもほどがあるんじゃない」
「八年間乳搾り女に成ってたロキちゃんに酔狂って言われるの心外すぎるんですけど」
 お熱も何もこっちは仕事の一環だっての、だなんて小言に小言を返しながら彼女はその唇を尖らせる。指先はロキにより紅茶を注がれたティーカップの取手を摘む。
 先までの眉を寄せてみたり唇を尖らせてみたりの表情は何処へやら、静かに紅茶を飲むその姿は確かに、うつくしいものであった。僅かに伏せられた目元には睫毛の影が些細にも落ちている。
 彼女の女性らしいゆるやかな喉仏の隆起にそれとなくロキは眼差しを向けていた。それは、ティーカップの中の紅茶及びその液体が彼女の粘膜を撫でさすりながら喉元を滑り落ちそうして、臓腑へと飛び込むそれに思いを馳せるものでもあった。
「ところでさ、ロキ──」
 ソーサーへと預け戻されたカップがほんの些細にカチャリと鳴った。
 そうして、陶磁器らしさを立てた身でありながらその次の瞬間にはどろりどろりと溶け始めテーブルを汚した。そうだ、カップやソーサー、彼女の指先が触れていたものはまるで有り余る熱に晒されたように、飴状にふつふつと泡を立て、音を立て、どろどろと溶けてしまっていたのだ。
 もちろん、彼女の指先に火傷もなければなんにひとつも支障は無い。何故なら、彼女の、彼女の怒りに晒された為に、それらは無残にも固体としての姿を失ったのだから。
「ヒュドラ如きの毒で私を殺ろうって?」
「あはッ、バレた?」
 両の手の平のうちを彼女へと見せながら戯けたロキの姿に、泡が一段と大きくぱちんと弾けたようだ。
「ジョークだってばジョーク! そりゃちょっとは踠き苦しんでくれないかなぁって思ったけどさ、ヒュドラの毒程度じゃ荷が重いよね」
 ギリシャのトリックスターとも呼称されるその女神は猛毒の女神であった。その神に毒を、それもヒュドラ如きの(その毒が幾らかの神の血を持つ者を屠っているとしても、その女神にとっては如きである)毒を盛ったとあっては、馬鹿にしているようなものだ。
 苛立つ女神を前にしながらもロキの様子というのは平時と変わらない。彼はトリカブトが生まれた所以を思い出しながら、紫色の花弁を指先で小突いているようだった。
 花瓶より花を一本抜きだして、ロキはそれを彼女へと差しだした。
「キミの血反吐からはどんな花が咲くのかなって、好奇心だよ。あっ、これプロポーズの一環だから」
 ロキの戯れる指先に連なる紫の花弁は踊らされるように揺れている。
「……ロキちゃんの考えてることって、よく分かんないよね」
 お互いさまじゃあないかなぁ、とロキの唇は言いはしなかった。
「はぁ……、帰る」
「あれ、怒った?」
 差しだされた花は彼女の見下ろす先だ、その言葉の意味する通りに席を立った為。
「別にそんなんじゃないし、ギリシャのトリックスターちゃんは忙しいんですぅ」
 確かに、その表情は怒っているものではなかった。どこか呆れてはいたが。
 そうして彼女は、ケーキスタンドに鎮座していたショートケーキの苺を指先で摘んで踵を返した。
「次はもうちょっとマシな毒でも盛ってね」
 ひらひらと後ろ手を振る彼女の姿は何処からかうまれた霧中に霞み、そうしてその霧を引き連れるようにして彼女のその姿は消えてしまったようだ。
 そうして残されるのはロキや、彼の指先に弄ばれるその花だ。
「ん〜……、脈が有るんだか無いんだか」
 ロキは受け取る者がいなくなったトリカブトの花をくるくると指先で回す、ぷつりと取れた花首、ぽちゃんと紅茶の水面に飛び込んだ。
 彼もまた、静かにカップを傾けた。
 ごくりと呑んだロキのそれが、花だったのか真意だったのかは神のみぞ──いいや、神さえも知らなかった。