透き通った硝子窓が招いた夕陽の色が、空間に立つ私の黒い影を伸ばしていた。
 天界にも朝と昼と夜のサイクルがあるのだなぁと漠然と思った、神話などに明るくなかった私は一生を終えた今でもやはり天界の成り立ちというものに疎かった。今は、そこで生きているとしても。いや、今の状況を『生きて』いると表すのが正しいかどうかも判断が付かなかった。けれど、天界の一角、海の神さまの居城のひとつの空間でこうして立ち竦んでいるということは紛れもない事実、それだった。
 天界のシステムより今の私を悩ませるのは隣に立つくだんの海の神さま、でもなく、偏に目の前に在るその絵だった。海の神さまがそうさせたので海の神さまが悩ませていると言えなくもなかったけれど。私の身の丈よりも大きなキャンバスは上等な額縁を共にしていた、そうしその額の装飾は海流を模しているものらしかった。
「これは……猫の耳を生やして……馬のような顔の突き出しで……下半身は蛇の……割合的に……哺乳類……?」
「雑魚め、魚類に決まっている。我が海のお魚さんだ」
 当たり前のように言い放ったポセイドンさま。いや、これはどう見てもお魚さんじゃないと思う、と、まじまじと見やってもその横顔は依然としてキャンバスの中の曰くお魚さんへと向いていた。
 海色の目がちらりと動く。
「知らぬと言うか」
「し、らないですね……ぁああいや私が無知なだけでいやほんとすみません」
「……お前の生きた時には疾うに滅したものだ」
「あっ絶滅種、なるほど、それは悲しい……やっぱり人類があれしちゃった感じですかね、そういうとこなんだよな……そりゃ終末会議でバツも掲げられるっていう話で因果応報というか……、このお魚さんどことなくタツノオトシゴに似てますねご先祖様ですか?」
「雑魚が」
「なんで怒ったんですか」
 たまにこの人、いや神さまのムッとするタイミングが分からない。いや、神さまのことを知り及ぶなんて傲りが過ぎるんですけどね。
 夕焼けの色に濡れる額縁の波は、その海にも黄昏時が訪れるんだなぁと、そんな漠然としたことを思わせた。そうしてお魚さんかどうかは置いておいて、やはりどことなくタツノオトシゴに似ている気がするなぁと思った。タツノオトシゴを創造したのもポセイドンさまなのだろうか、ヒトデやイルカを創造したみたいに。
「……つまらぬ生物だな」
 窺うとポセイドンさまは思いっきり此方へと向いていた。その主語は、私ということだ。ちょっとひどいなと思わないこともなかったけれど、天界は風変わりな神さまばかりだし私みたいなやつがつまらないという枠組みなのも納得の話だった。キャンバスの中で泳いでいるのはお魚さんであるということより納得できる。
 キャンバスの極めて下の端っこの方にサインらしきものがある。それに気付いたままにしゃがみ込み、顔先を近づけてまじまじと観察、解読しようとしたけれど私は筆記体が分からなかった。よくよく考えたら神さま間での言語かもしれなかった。
 しゃがんだままにポセイドンさまを見ると、立っていたとしても遥かに大きいポセイドンさまがさらに大きく見える。そうして初めて会った時もこうして見上げたんだよなぁとなんともしみじみしてしまった。へへっと笑ってしまってから、ポセイドンさまの目元がぴくりとしたのにムッとポイントに引っかかってしまったかと思ったけれど雑魚判定は受けなかった。
「雑魚、」
 受けた。
「此処で先ほどまで話した全ては偽りだ」
「いつわ……えっ、嘘なんですか」
「お魚さんではない、滅した生物でもない」
「えぇ……じゃあ、これはなんなんです?」
 思わずこれ、と言いながら指差してしまった。やっぱりお魚さんじゃないんじゃないか。
「ゼウスの落書きだ」
「らくがき」
「ゼウスの落書きだ」
「ゼウスさまのらくがき」
 これがお魚さんなのか哺乳類なのか神のみぞ知る、ゼウスさま限定でということだ。
「神は謀らぬ……が、冗談を口にせぬとは言わぬ」
「ポセイドンさまが……? 冗談……?」
「雑魚以下が」
 ムッとした唇が見えたけれど、もう此処に用はないとばかりに踵を返したポセイドンさまに私も慌てて立ち上がる他ない。当たり前に脚の長さが違い過ぎるのであたふたとしているうちにポセイドンさまの背中というのはどんどん遠ざかる。
「あっ」
 それは徐に立ち止まったポセイドンさまの後背と、つまらぬ生物と偽られたことに気付いた私の発声だ。
「そういうの、めちゃくちゃらしくないですね」
「雑魚が」
「雑魚であることは偽りじゃないんだ! というか落書き飾ってるんですねゼウスさまの。お兄ちゃんっぽいですね」
「雑魚が」
「雑魚ですぅ、つまらなくはないですけれど! たぶん、きっと、少しは、あっすみません調子にのりました」
 ひとつ息を吐き出すようにして再び歩みだしたポセイドンさまに慌てて駆け寄った、取り残されると広いお城の中で迷子になってしまうからだ。
 ちらりと見た硝子窓の向こうはニュクスさまの司る夜の色になってきていた、天界の一日がまた終えようとしている。そういえば、次の終末会議とやらがもうすぐあるらしい。人類が滅亡したとしても、ポセイドンさまとこのなんともないような毎日を続けていけたらなぁと思った。星がきらりと奔った。流れ星って、良いことか悪いことかよく分かんないなぁ。



お題メーカー、 さみしいなにかをかくための題より『オレンジの光が周囲を照らす夕方、美術館の飾られた絵の前で架空の動物についての話をしてください。』