夜のヴェールが降ろされる、それは言葉の比喩ではなく真実、そのようにして世界に訪れる夜だった。
 薄くもきめ細かいヴェールだが世界を夜で覆うに相応しく、無数の星の装飾を縫い付けてはその夜の中に泳がせている。たっぷりと風を孕んだように膨らみ揺れ遊ぶそれを摘む指先は、身はひとつではなく、二つ三つ四つ──数えていては切りがない。夜の神の御使い達によって今宵もまた、天界、地上、その世界に夜が訪れる。それは朝に昼に夜、それらが生まれた時より繰り返される不変であった。
 けれども、後に起こるティターノマキアやラグナロクのように、得てして物事は不変永続しないものである。即ち、その日、夜は訪れなかった。そして先に述べたものが神の気紛れが関して発生したように、それもまた神の気紛れが関したと言える。とは言っても、それは夜の神の気紛れではない。他の神による夜の神の御使いへのちょっかい、それの為であった。
 それでは終ぞ世界に夜は訪れなくなってしまったのかというと、そうではなかった。
 少年──今はまだ統べるものも持たない幼な子である神、彼が徐に眼差しを向けた窓、その先の空から夜のヴェールが降ろされてきているのだから。
 地平線を濡らす黄昏の色を追い立てるようにも、或いは慈しみを以って夜の色で覆ってしまうようにも見えるその光景。
「母よ、あの者は誰だ」
 数えきれないばかりの御使い達により降ろされていたヴェールをたった一身で降ろす、仄かな微笑みさえ浮かべている口元その横顔から眼差しを逸さぬままに少年は母へと問うた。
 あれこそ夜の女神であると、大地の女神であるレアは答えた。
 少年の静かに繰り返される瞬きや呼吸の合間にも夜のヴェールは降ろされ続け、夜は世界へと訪れる。女神の、夜のヴェールの如き名の響きを唇を引き結んだままに少年は胸中にて呟く。その合間にさえやはり、夜のヴェールは降ろされる。
 こうして、後の大海を統べる、海の神となるポセイドンと夜の女神との神話はその夜に、静かに始まったのであった。

 天界に夜のヴェールを降ろすことを夜の女神その者が担うことになったこと、それを幾日確認した少年、ポセイドンはとあるその夜、海辺の流砂をその靴裏に踏み締めていた。
 時折に岩辺の影から向けられるニュンペー、海の下級女神からの視線を気にすることもなく、砂浜をずんずんと歩むその姿はまず間違いなく目的地、目的が存在するといったようなものだ。
 降ろされた夜のヴェールにぷっかりと浮かぶブローチのような月、細かな装飾のような星々。そのしらしらと降り注ぐ月光に、闇夜を手探りに歩むということもない。或いは、夜に隠されることのない女神の姿、その為に。
 そこに小石が在れば蹴飛ばさんばかりの勢いで歩んでいたポセイドンの足音は、ニュンペーの些細な語りに耳を傾ける夜の女神、そのシーンを奪ったらしい。
 岩辺に腰掛けた夜の女神の眼差しは、水中へと逃げ帰ったニュンペーの跳ねさせた飛沫を見守った。その飛沫は月光を受けてきらきらと眩く、そちらをちらりとも見ることのなかったポセイドンの視界の端にも映り込むようにしてそうして、海へと帰った。
 夜のヴェールそのものにも見紛う女神のドレスのたっぷりとした裾元は、その腰掛けた岩よりも降り、いっそ打ち寄せる波のようにも砂浜に広がっている。
 ポセイドンの、波間へと指先を浸けるかのようにもそれを片手に鷲掴んだ心持ちというのは、少年のその年齢にも相応しいとも言うべきだろうか。
 彼がニュンペーにも海水の飛沫にも意識を向けなかったように、夜の女神とてポセイドンに顔先どころか意識を向けている様子がなかったのだ。
 ニュンペーなどにも注がれていた眼差しが自身を捉えないということは、腹立たしい。
 この海に氷塊は浮いてはいないがまるで氷塊が浮かぶ海であるように、その塊に奔る亀裂のぴしりぴしりとした音が響くような空気は確かに存在していた。
 二神の間に何度、波が引いては寄せただろうか。実際には海鳴りも無い静かな夜に先に響いた声は、少年の、ポセイドンのものであった。
「妻に成れ」
 夜を微かに駆けた風が彼の前髪を揺らした、一神に向けられた眼差しは揺らぐこともなかったが。
 振り返りさえしない、グッと力を込められたのは彼の噛み締めた奥歯辺りだろうか。ポセイドンが鷲掴んだそれを力任せに引いてさえしまおうかと指先に僅か力を入れた頃合いだ、夜の女神が僅かに振り返ったのは。
 その横顔はあの夜に見たものであり、またあの夜に欲したものであった。
 仄かな微笑みを浮かべたその口元へと少年は眼差しを寄せる。それは、その唇が応じを紡ぐ瞬間を見捉えようというものであった。けれども果たして、夜の女神がポセイドンの思う応じを紡いだかと言えば決して、そうではなかった。
「坊や、学を身につけなさい。これでは夜の、私の使いの者たちにちょっかいをかけてきた輩と変わりないわ」
 神は人より遥かにキレやすい。女神の口元に浮かんだ呆れに、胃が煮え繰り返えらんばかりに彼が苛立たなかったのは奇跡であったのかもしれない。ポセイドンの眉根は寄ったが、二神の間には変わらずに静かな夜が横たわっていた。
 岩場の影からニュンペー達が恐々と盗み見る、夜の女神を見る少年の眼がキッと威嚇する、ニュンペー達はヒャっと顔先を引っ込める。
 夜は変わらずに横たわる。
 その夜に何が在ろうとも何が無かろうとも、時間は経つものだ。
 ドレスの裾元は未だポセイドンの片手が鷲掴んでいるものの、すくりと立ち上がった夜の女神は指先にそれを摘み揺らした。カンテラのようにも携えられたそれは夜の訪れと夜が帰っていくことを示すものであり、時計にも似たその指針は夜のヴェールを引き上げる頃合いであることを示していた。
 ポセイドンの片手は一度、鷲掴んでいる女神のドレスの裾元をギュッと握り込んだものの、その夜に放すようにも返していた。夜の女神はそれをちらりとも眼差しにすることはなかったが。
 するすると引き潮のようにも引いていくが、海は天へと帰らない。波間に未練など無いようにも揺れるドレスの裾元は、いっそ夜のヴェールとの境を見失っているようにも思えた。
 夜が帰っていく、裾元と覆っていた夜のヴェールの下から朝が僅かに覗いている。
 御使い達を侍らすようにも夜のヴェールを一神で引き上げていくその夜の女神の姿をポセイドンは、その姿が捉えられなくなった後も暫く眼差しにしていた。朝焼けの空に僅か朧げながらに月が存在するように、夜の女神すらもしかしたら未だそこに在るのではないかというように。長く、長くに。

 カツリ、カツリと足音は継続的に石畳の床に響いている。
 ちょうど真上に登った太陽、差し込む陽光は僅か目に眩いものがあるが、手元の綴りを追うことを遮る陰りがないことは好ましい。
 自身の背丈以上に高く在る本棚から一冊の書物を取りそのままに読み歩き戻っていた少年、ポセイドンの足音と時折にページを捲る些細な音が神殿に響いていた。
 もしこの今は幼き神の後の姿といつかの夜のあらましを知るものが在ったのなら、驚愕か或いは微笑ましさを以った眼差しを向けることであろうが、今はただ本を読むポセイドンのその姿しか在らん為に持ち出しても取り留めもない。
「よぉポセイドン、ネレイスにでもちょっかいをかけに行こうぜ!」
 いいや、そこにはすれ違うアダマス、ポセイドンに取っては兄の姿も在った。
「…………」
 けれども片手に開いた書物から眼差しを上げることもないポセイドンの歩みが止まることはなく、アダマスの呼びかけに返事のひとつもありはしなかった。アダマスの持つ鎌状の得物に反射した陽光が一度眼を眩く刺したのには眉根を寄せるようにしたものの、やはり、ポセイドンの歩みはそうして彼が自室に戻り椅子に腰掛けるまでは途切れることもなかった。
 章の区切りその最後の一節を読み終えたポセイドンの眼差しは、書物へ落とされたままに夜を浮かべているようでもあった。勿論、爛々と明るい昼の景観からも分かる通りに、浮かべる夜というのは追憶という行為である。
 夜のヴェールを降ろす横顔と己を振り返った横顔、その口元ら。
 静かな空間にくしゃりとなった書物の端っこは、そうした彼の指先に摘まれたままだ。紙面へと伸びた皺は幾つかに枝分かれその先でやはり幾つかの単語へと辿り着く。『月』『星』『夜』、異なろうともそのどれもがひとつへと帰り着くようでもあった。
 天界の書物へも綴られる夜の女神、その唇を引き結んだままにもポセイドンの指先はページを捲り、眼差しは次の綴りを追っていく。何度も繰り返される。それはあたかも、夜の女神とポセイドンにおけるやり取りでもあるようだった。
 いや、逃げ果せるなど在っては成らぬ。
 そうとも言うように、読み終わった本の山はまた一段と高くなった。その山の頂上に日は落ちる、窓辺から覗く黄昏の色が告げる。
 誰にとっての幸か不幸か、夜は毎夜訪れるものであった。

「此のポセイドンの妻に成れ」
 幾度目かの宣言もやはり、揺らぐこともない眼差しを共にして夜の女神へと向けられた。
 ポセイドンの登場にニュンペー達が驚き波間へと飛び込み帰ることもなくなってしまったほどには、少年と夜の女神とのやり取りは続いていた。果たして一神、重きに傾きが在る為にやり取りと言い表していいものかはさておき、だ。
 「はぁ」とも「ふぅ」ともその溜息は夜にとけるように消えた。鋭い目付きを向けられたわけではないが示し合わせたようにぽちゃんと海中に帰ってしまったニュンペーたちに向けて零された夜の女神のものであった。得てして、女神というものは恋だ愛だの話を好く傾向にあった。最後に海中に帰ったニュンペーの眼差しに察した彼女の、溜息であった。
 ポセイドンの宣言が幾度目かであるように、今夜もまた、彼の望む応じの言葉が夜に響くことはなかった。二神の間にはやはり、変わらぬ夜が横たわっている。
 ただ、今夜は明るい夜ではなかった。
 夜を統べるということは月光さえ統べるということ、けれども天界であろうといや天界であるからこそ明るい夜ばかりではそれもまた遊びがないと言うように。或いは夜のヴェール、その布地は淑女のクローゼットで出番を待つドレスのように幾数も種類が在ったもので、月も星も隠れる夜も在るということだ。
 今夜は、そのように闇夜に暗い夜であった。
 夜の女神が夜に掻き消されるということはありはしないものであったのだが、彼女とてその夜の装いを損なうような趣向を持ち合わせてはおらず、平時よりしずしずしらしらとした輝きは時折の瞬きの合間に失くしてしまいそうな危うささえあった。
 そのような夜では手元であろうと書物を読むのは難しい、それは勿論のことであった。
 ポセイドンは、自身の眼差しの先で岩辺に腰掛け直し本を開くその姿を僅か怪訝そうな顔で見る。そうしたその少年の天色の眼の中に、仄かなちらちらとした輝きは泳いだ。その灯りは、夜の女神の指先に在った。
 トントンと軽く紙面の上を跳ねる彼女のその細い指の先では、小さな光たちがその指先に縋り付くようにして遊んでいた。時折に彼女の指先と同じように跳ねたり踊ったりして見せるが、彼女が望む時にはしっかりとその灯りを以って眼差しを導くそれは、星の子であった。
 時に無邪気に明るさを強め過ぎる星の子、夜の女神が唇に一本の指を添えてシィと音を発する。それを、ポセイドンは静かに観察していた。夜の女神と星の子の光景は、彼はそのようなことをしたことがなかったがそれは、寝静まった両親の目を盗み、シーツを被りカンテラの覚束ない灯りを以って物語を読み耽る人の子のようなものであった。
 もしかしたら、この夜に彼女を眼差しにするポセイドンのそれも似たようなものであった。
 ざり、と音がしたのはポセイドンの足元からだ。それは眼差しを前のめりに向け始めていた為に、食い入るように彼女を見ていたからに他ならないものだったが、取り繕うように傍らからでは平時と何ら変わりないような面持ちで彼は言った。
「……それは、何だ」
 その言葉の響きは確かにぶっきらぼうではあったが。
 伏せられた眼差しのままに少し考えた夜の女神の唇は「本」と形作ろうとはしたものの、幾度目かの夜であろうと初めて異なる種類の言葉を投げられたこともあり、小さな声音ながらもその本のタイトルを紡いでいた。
「あぶくの中に満ちるもの」
 問いに答えが返ってきた。それは即ち、幾度目かの夜であろうと、初めて二神の間に発生した会話でもあった。
 ポセイドンの唇は引き結ばれ、眉根は微かに寄せられた。それが意味するところは幾度目かの夜にようやっと霧中ばかりで無くなったことへの感情の発露と、知らぬ響きのものであることへの苛立ち。
「『論じて分からぬ恋というものも、自分がおちてみれば息を吸って吐くあれのように当たり前に捉えられるのです。』」
 ──生涯で初めて、ポセイドンと夜の女神の目が合った瞬間というのはこの夜のこの時であった。夜は先ほどまでと何ら変わらず横たわっていたはずだが、まるでその夜、この世界にはお互いしか在らぬようなそんな何かが二神にはあった。
 とたりと、星の子が彼女の指先にぶつかった。まるで夜はそれで帰ってきたようだった。或いはそれは夜の女神、彼女の意識である。
「百二十四ページ、三行目。でもこれは人間が書いたものだから、知らないのではなくて?」
 徐に本から掬い上げた一節は明らかにしくじりのそれであったと一瞬彼女の表情には浮いたが、それを無かったものにするかのように、神らしいゆったりとした表情が浮かび直す。そうして紡がれた言葉だ。
「……、知らぬ」
 その数秒にポセイドンが何を思考したかは分からないが、彼は確かに知らぬものであるということを認めそう返した。
「知らないことを知らないと認めることができるのは、罪ではないわ」
 少年の眉根の寄りを眼差しに、夜の女神の声が夜に静かに響いた。
「夜の女神、名は何と言う」
 勿論、夜の女神の名、それ自体を知らぬはずもなかった。けれどもそうして問うたポセイドンに彼女は、やはりとした言葉を返す。
「知っていることを知らないと言うつもりなのね」
「その唇が紡ぐ響きは知らぬ」
 まァ、とでも言うように夜の女神の上唇と下唇の合間に隙間はもうけられた。その唇は一度閉じられたものの、微かに吊り上がった口辺とくすくすとした笑み声が間も無くに零されたのなら、そこに無碍にする女神はいないということだ。
「     」
 波間を縫うようにも紡がれた夜の女神の名は、確かとポセイドンの鼓膜を震わせたようだった。
 その夜に何が在ろうとも何が無かろうとも、時間は経つものであった。
「おやすみなさいポセイドン、夜更かしの坊や」
 去り際、不意打ちに目を見開く彼のそのような姿があったとしても、夜は明ける。

 幾度目かの夜を境に、ポセイドンと夜の女神、その二神の夜というものはゆるやかにも変わっていった。

 夜の女神のドレスを手繰り寄せようとした初めの夜より幾分成長したとはいえ、ポセイドンはまだ青年と言い表すより少年と言い表した方がしっくりくるといった見目だった。そうしてそれは夜の女神である彼女の方が未だに彼より目線が高いということだった。
 ワルツを踊るような足取りで砂浜を歩む夜の女神が徐に振り返った時、僅かに目線を下げるそれで、なんとも言い表せぬ感情がポセイドンの心中で渦を巻く。けれでもただ、伏し目によりできる睫毛の些細な傾斜というものの美、それを感じることができるという点においては彼も満更ではなかったと言える。
 夜のヴェールを天界に降ろしたままに夜の女神は、海辺を歩む。
「海は好きよ、夜空を映し月までも泳がせるんですもの。私の夜をそっくりそのまま創りだしているようで、可愛げがあるでしょう」
 ポセイドンに彼女の言う海の可愛げは解らなかったものの、自身へと振り返り唇を笑ませるその女神の姿は好ましいものであった。
 ぱしゃり、ぱしゃりと音がする。夜の女神の足は波を踏み、そうして砂浜を踏んだ。その些細な音の調べを聴こうとするようにポセイドンの瞼は僅かに閉ざされたものだが、不意に腕引くものや重心の崩れで、彼のその視界は開け放たれた。
 ポセイドンの視界には自身の前髪や、悪戯にも思える夜の女神の笑みが夜空を向こうに浮かんでいた。そうして、海水の飛沫である。
「ずいぶん非力ですこと」
 彼の腕を不意打ちに引いた彼女の手は彼女自身のその口元に添えられ、その下では至極楽しそうに唇が笑っていた。
「……姑息な」
 波は波打ち際へと尻餅をついたポセイドンの腕へとぶつかりながらも寄せ、腰元にある装飾具がその波に揺られて些細な音を立てていた。
「じゃあ宣言してからやるわ、もう一度」
 夜の女神の笑い声というのは波に転がる音にも細波のようにもポセイドンの耳に届いた。
「……、今に見ているがいい」
「そうね、もっとお強くなりなさいな」
 そうして海水を手の平に掬い上げたり零してみせたりするその姿は、いっそ海の女神でもあるようにポセイドンの眼差しに映ったことであった。

 それでやはり、夜は毎夜幾度も訪れる。
 夜の女神の見目は一切変わっていないものの、二神の眼差しの高さがどんどん近くなりそうしてまた遠ざかっていくほど天界に夜は幾度も訪れた。
 繰り返し訪れる夜の合間には些細な出来事──ティターノマキア、宇宙最強神決定戦を些細と言い表していいものかはさておき、些細な出来事があったりもした。そうして例えば、末弟、ゼウスが父殺し、つまりクロノスを屠ったことにより支配領域の再分配が行われたりもした。
 分配とは言うものの、所詮決め方はくじ引きであったことだが。
「なんだよくじ引きってそれになんだオレのこの支配領域はよぉ、ハデスのそれよりはマシだろうが……おいポセイドン、お前はまだ良いのを引いたよな」
 支配領域のくじ引きで海を引いた彼は、一瞬天界を引いた末弟、ゼウスへと視線をやったものの、「海は好きよ」と言った彼女のその声音を耳に思いだしたものだ。
「あ? おまっ、何処行くつもりだよ。っつーか一杯も飲んでねぇじゃねえか」
 ティターノマキアの打ち上げ、所謂祝宴に出席はしたものの、別段どうということはないというポセイドンの眼差しが並ぶ酒樽に向けられるだけ向けられる。
 酒樽の蛇口の鈍色は鮮明にはポセイドンの姿を映し出さないが、そこには女神の細い腕などが不意打ちに引っ張ろうとびくともしないであろう青年の姿が在った。
 ──夜の女神を、あの者を得るには次は。
 キュクロープス達より献上された三叉槍、それがポセイドンの握り込んだ掌の中で僅かに鳴った。

「大海の暴君ですって」
 夜空に星が不意に煌くようにも、夜の女神は言った。
 当たり前のように夜を過ごす二神の合間に波は寄せる、引いては寄せる。
「こんなにも幼かった坊やが、今や大海の暴君だなんて呼ばれているのね」
 ふふと笑いながら、「こんなにも」と己の腰元を手の平で計り差す彼女にポセイドンは見下ろすようにも眼差しを向けた。
 勿論、初めて出会った時ですらそこまで幼かったわけではないので彼女のそれは冗談であり、眉根を寄せ苛立ったようにも眼差しをやった彼のそれも実には冗談の意味合いを抱いた。一神が大海の暴君と呼ばれるように成ろうとも変わることのない関係、それがそこには存在していることを示していた。
「嫌だわ、そんなにも恐い顔しちゃ。坊やと呼ぶにはもう、ずいぶんと立派になったことだと分かっているもの。ねぇ、ポセイドン」
 さくりさくりと砂浜を歩む、夜の女神の眼差しは海と夜空の境目を知るようにも向けられる。
「ニュンペーたちの間でもうんと話題になってやまないわ、海神に腕を引かれることを待ちわびる乙女たちの歌声が鼓膜をくすぐって、」
 その横顔は何にひとつも変わることがないと、ポセイドンは静かに胸中にて呟いた。また、彼の統べる海とて静かなものであった。この夜に厭うものなど在っては成らぬというように。
 けれども、海は荒む。それは偏に、ポセイドンへと向き直った夜の女神の為であった。その言葉の、為であった。
「貴方、何方の女神を迎えるんでしょう」
 至極無邪気な響きは波の飛沫に直ぐに覆い被されたようなものだ。
 二神を波がぶちつけることはないものの、鼓膜に波の喧騒は響き、生まれた荒い潮風にお互いの髪が夜に激しく泳ぐ。
「……、」
 一度引き結ばれたポセイドンの唇に、荒んだ海は治まった。それはあたかも、後の言葉を聞き逃すことなど許さぬというものだ。
「妻に成れ。初めに、余はそう言った」
 初めの夜、その夜に向けた眼差しと同じ一心としたものが彼女へと向けられていた。或いはそれは初めだけではなく、幾度と二神に訪れた夜、そのどれもで変わることのなかった眼差しと思いである。
「幾度と、申してきた」
 海面を駆けた穏やかな夜風がその月色の髪を揺らした、二神の一致した眼差しが揺らぐことはない。
「次は何を求める」
 その響きは求めるものが何であろうと得るといったものでしかなかった。
「応じぬなど、在りはせぬ。必ず、妻にする」
 ポセイドンの手は触れずとも夜の女神の輪郭を辿り、その掌に未だ得られぬものが在るといったように握りしめられ、ぎちりと鳴った。
「……今宵はもう、帰してやれると思うな」
 彼の手は彼女のドレスも夜のヴェールも鷲掴みはしなかったが離すこと能わずと、眼差しにて縫い留めているようなものであった。
 夜のヴェールが空気を孕むようにも波打った。そのふわりともした風合いで、夜の女神はポセイドンの名を紡いだ。
 そうして夜の女神は最後に欲するものを海の神へと告げた。
 小さく告げられたそれは波音にさえ拐われるようなもので、聞き遂げたのはポセイドン、彼しかいない。けれどもそれでよかった、それこそが全てであった。

 ──幾日、天界に夜のヴェールは降りたままとなった。それが指し示すことがつまり、とある神話の行く末であった。

 そうして後にまた、天界に朝と夜が繰り返されるようになったのは、海神がその女神を帰したこと、手放したことには決してならない。今はカオスの娘、ニュクスが夜を司り、夜の女神はかつての夜の女神と成った。
 夜のヴェールは二神の間にはもう無いが、夜も朝も昼も二神を分かつこと能わず。その女神を欲したようにも欲せられたままに、ポセイドンはその女神を妻とした。