極めて目立たぬように誰にも気づかれぬようにしていた、彼女は。それでもそれは到底無理な話であるというものであった。夜空を司る女神の気も知らず、彼女が脚を浸らせた海はその肌に触れたところから燐光をたなびかせるようにも描いている。それはあたかも夜空ではないところに夜空を創り天つ河を創り上げるようなものだった。
 天つ河を些細に掻き分けるように歩みながら、月光が揺らめく海面を彷徨う彼女の眼差しは何かを探していた。
 零された溜息にも似た吐息を追うように波の飛沫が彼女の足にぶつかった。
「……何をしている」
 問いは、その静かな問いは波の飛沫よりも遥かな衝撃を彼女に与えたようであった。
「……ポセイドン様」
 ふるると震える彼女の睫毛は細波にも似ている。その睫毛の影元より向いた彼女の眼差しの先にはその零した言葉の通りに、海の神、ポセイドンが在った。
 そも、彼女が幾ら忍ぼうと、海の神である彼が君臨しているうちにそのようなことはやはり、無理な話であった。
「……今宵は、」
 海の神は少しだけ夜空を眼差しで見仰いだようだった。
「落ちてきたわけではないようだが」
 それは先日、夜空の神が海へと落ちてきたことを言い表していた。そうしてその通りに、彼女は先日、海に映り込んだ星の輝きに手を伸ばすままに落ちてしまっていたのだ、海に。
「耳飾りを、落としたのです」
 恥じ入るように、眼差しは背けられた。
 我が子ら、星たちから贈られたその耳飾りを今宵落としたのだと彼女は言った。
 眼差しを落とす彼女のその先に、海辺を歩む海神の静かな足音が響いた。波は二神の合間にも絶えず満ちては引いていたが、海神のその靴先が波に触れるか否かのところで、海は退くようにして道を築いていた。呆気に取られながらそれを見る彼女は、その道の先に煌くものが在ることに気付く。それは確かに彼女の落としたという耳飾りに他ならない。
 静かな夜に厭われぬ足音は僅か、耳飾りは今の彼女から近しい位置に落ちたようだった。
 夜の静寂のような眼差しで見下ろされた耳飾り。退いていた海からするりと伸びてきたさまは植物の蔦。その海の蔓先は耳飾りを些細に引っ掛けると、献上するようにも海神の前へとするりするりと伸びた。
 ゆるりと身体の向きを変えた海神に海は道を開ける、彼女の脚に触れる波も退いていた。
 夜空の神の耳飾りを掌に納め、そうして彼女へと歩むその足音はやはり、どこまでも静かであった。
「ありがとう、ございます。それに先日も……、感謝をお伝えすることが遅れてしまい失礼を……」
 彼女は頭を垂れ、耳飾りを受け取ろうと両の手の平を出す、が。耳飾りが彼女のその手の平の上に帰ってくる感触は一向に訪れることがなかった。
 怒って、いるのだろうか。
 そろそろと元の海、波間へと帰った自身の足元から顔を上げ海の神のその表情を見るが、彼のそれから真意を知るなど今の彼女にはできないことであった。
「……次は首飾りか」
 彼女の首元に輝く、天体の輪のような装飾に指を触れさせながら海の神は言った。
 夜の空の神はそれに動揺した、酷く。
「それともまた……自身が落ちてくるつもりだったか」
 瞬間、彼女の周りには小さな綺羅星がぱちぱちと瞬く──それは羞恥であった。
 海の神は、このポセイドンという男は、今宵耳飾りを故意に落とした女の指先を知り及んでいた。
「神は群れぬ、謀らぬ、頼らぬ……が、求めぬわけでもない」
 海の色の眼差しは静かに、それでも確かに夜空の神のその姿を泳がせている。
「今宵……夜の空の神を帰さぬとしたら、星の子らは叛乱でも侵すのか」
 それは微かに挑発的な笑みであったと、彼女は思った。
 海の神の手から耳飾りは返却された、それは夜空の神の手の平に小さく跳ね返り、波間へとぽちゃんと落ちたらしかった。