黄昏の色に地上は濡れていた、引いては寄せる波の音に私の鼓膜は震えている。粒子の群れる砂浜にひとり素足の指先を潜り込ませて歩む姿というのは奇怪に見えるかもしれなかったけれど、神の姿を捉えられる者が此処にいるようでもなくてそうと考えたのも些細なことでしかなかった。そもそも、人間のひとりさえ周辺にいないらしかった。やはり、些細な違いでしかなかったけれど。
 季節の恩恵と、今は沈みかけの太陽の眼差しをいっぱいに受けていた海水は少しぬるいようだった。差し込んだ足先、波はふくらはぎも濡らす。時折に弾ける飛沫は胸元の装いも濡らした。
 引く波に手招かれるように眼差しをやれば、地上の海へと訪れた理由がその先に在ったようだった。
 波間にきらりと光るそれは、夜の空に横たう我が子のようにも思えた。そうして思わず頬をやわく笑ませるそれは、過去を慈しむということだった。夜空を担う神である私が、海に映り込んだ星の輝きに手を伸ばしそのままに落ちてしまったとある日のことを思いださせた。
 夜空の神だと聞いたが、これでは流星ではないか。
 ぽちゃんと、本当はそんな可愛らしい音ではなかったけれど、海水の飛沫を宙に舞わせるように海へと落下した私をすくいあげた彼の言葉。潮騒のように私の鼓膜を揺らした彼の。
 もちろん存在は当たり前に知っていたのだけれど、海の神様である彼と会ったのはそれが初めてで、その与えられた言葉が稀有な、彼にとっては稀有なユーモアの響きを纏わせたものであるということが理解できたのはもっと後のことだった。懇意にしていただき、それよりも深く、海よりも深く慈しまれたその頃合い。
 鼓膜はあの日の潮騒の響きを幾度と思いだすようにしている、星の子が駆けてたなびかせる尾のような余韻に似ていた。
 思い出を纏わせながら、深い会釈をするように腰を折り指先から腕へと、海へと浸していく。波でゆらゆらと輝く煌めきはそれでも私の眼差しの先に在った。
 それはもしかしたら、腕を引かれるものにも似ていた。
 海は彼が統治しているが故に満ち潮も引き潮も私の足を掬うようなことはなくて、いいえ、時折に彼の意のままに悪戯をすることはあったけれど兎も角、少しだけ忘れていたのかもしれない。海は気紛れであるのだ、そうしてそれは神にも似ている。
 夜空から落ちた時に比べて遥かに些細な衝撃で、海は私を抱いた。髪も装いも海に泳いだ、こんなにも深かったかしらと波に流れる自身の髪を他人事のように見ていた。
 海流に奪われないようにしながら、自身が指先で掬ったそれを眼差しで確かめる。やはり、とても綺麗であった。そうしてその輝きをみせながら、荒々しく私の身体を揺らしてみせる海が、彼を思わせるようで徐に私の瞼を閉ざさせるようだった。空気でくすぐるように笑んだ私の唇から零れたあぶくが海面へと逃げていくようだった。
 不意に波よりも強引に私の身体は引き寄せられた、その腕の持ち主を私は知っている。
 黄昏は少しだけ追い立てられ宵に近付いていた。海中から抜けだし海面、そうして空に近くなった私の見下ろす先にはポセイドン様がいた。私をすくいあげたままに、その眼差しの色は私を見ていた。
「……余の妻が、海で溺れるつもりか」
 静かな声音だったけれど、海の神様がやってきたとあって海は凪いでなんにひとつも邪魔をすることはなかった。
 僅かな宵の色に濡れる彼のかんばせは、彼という存在はとても美しかった、夜を手招き月光だけに浮かばせたい、夜空に掬いあげたいだなんて思う。それは海におちた女神の微かな欲張りでしかなかった。
「……、何か言ったらどうだ」
 彼の指の腹は私の喉元に触れるようだった。そうしながら少しだけ寄せられた眉根が、此方を心配してのものだと理解できるのは、もう長いこと彼の側に在ったということを表していた。
「貴方様と初めてお会いした時のことを思いだして」
「……地上の海になど、何の用だ」
「読書をなさっていたのでは、ポセイドン様」
 問うたのは此方だという眼差しが向けられたことは分かっていた、それを知らんふりするように彼の毛先からぽたぽたと滴り落ちる海の水の粒を片手の平に遊ばせた。
 ふん、とそっぽを向くような動作と共に海が彼を濡らすことはなくなり、また私も海水に濡れていたと過去になった。
 私から揺蕩った眼差しにそれでも見えるよう片手の中に収めていたそれを差しだした。それもまた乾いていたが、輝きは海中に在った時となんら変わっておらず偏に美しさを抱いていた。
「硝子片ではないか……これがどうした」
「ええ、そうとも言います。波間で研磨された硝子片、綺麗でしょう」
 私へと戻された彼の顔先には怪訝な表情が浮いていた。理解に苦しむ、といったものらしかった。
「天界の海には在りませんでしょう」
「当たり前だ、余の海に廃棄物など在りはせぬ」
「ですから、地上に降りてきました。これが欲しくって」
 欲しかったものを手に入れたという事が改めて嬉しくなり、私の唇を笑ませる。彼はより怪訝な表情で私の得たものを注視するようだった。
 海上を微かな風が駆けていく、それにポセイドン様の前髪は微かに流され、眼差しは時折にかくれんぼうをするように遮られた。天色の、海の神様の眼は私の眼差しの先に在った。
「愛おしくって、たまりません」
 そろりそろりと夜のヴェールが降りてくる、夜空と海がいつまでも向かいあわせなら良いのに。心の中で呟いたそれは海面への波紋にも成り得ない。
 ──そうしてそれは夜の空と朝の空が数度交代した後の日のこと、貴方の大きな掌の中で輝く小さな色硝子の、私の眼と同じ彩りのそれはどこまでも夜空の神を海へとおとすことです。