ぴちょんぴちょんと、朝露が滴り落ちては揺さぶってくるようでした。いえ、そのようと申しますよりはその通りに、重なりあった葉と葉の先から朝の露が滴り落ちては私が紡いだ巣をぶって揺らしておりました。
 ──そうだ、此れは夢。また、私の身の上の話で御座います。初めの生から連なる追憶に御座います。
 他の大凡の蜘蛛がそうします通り、私もまた巣を紡ぎ獲物が掛かるのを待ち構えておりました。最後に腹がくちく成りましたのは如何程前でありましたでしょうか、日が暮れ日が昇り、日が暮れ日が昇り、そうしてやはり日が暮れ日が昇っておりました。
 摂理ではありましょうが、もう終いかと巣の片隅でじっと身を縮めていた朝のことで御座います。まるで極楽浄土から(その時の私にはもちろん、そのような御所分かりやしませんが)やってきたような甘やかな色合いの蝶がひらひらと舞い飛んできたのです。
 その羽ばたきの名残がまるで薄い花びらが風に遊ぶようだとも蜘蛛の目で追っておりますと、ふらりと舞い飛んできたその蝶はぱたたともがきます。
 蝶が私の巣に掛かったのです。
 青空から雷が飛び降りてきたようにも不意打ちに驚いておりました、私は。まるでそれが他人事(蜘蛛で、人では御座いませんけれど)のようでしたから、その蝶の元へ巣を伝い向かうのが遅れてしまったことです。
 ぱたたともがきながらも逃れることのできぬ蝶、それを見ていた私の眼差しに飛び込んできたのはほんに大きな影で御座いました。それは薄い花びらのような蝶の翅を纏めるようにちょいと摘んでは、徐に私の巣から引き離してしまったのです。
 ぷつぷつと途切れて宙に漂う己の蜘蛛の糸をただただ呆然と見ておりました。もちろん、ただの小さき蜘蛛にそれ以上ができましょうか。
 私の巣に引っかかった蝶は、人の手によって逃されました。
 いえ、今思えば無理も御座いません、それもまた人の性と申しましょう。
 蝶を逃したその巨大な生物を私は呆然と見ておりましたが、その次に襲いきたものと言いますとそれはもう、私にとっては落雷とおんなじようなもんです。つまりそう、私の巣は棒切れで取り払われようとしておりました。
 獲物を逃されただけでなく巣も破壊され、あまつさえ棒切れ(棒切れと言いましてもその時の私としましてはほんに小さな蜘蛛でありましたから、自身の身体よりも遥かに巨大なそれで叩かれるなど死の他に迎えるものが御座いましょうか)でぴしゃりとやろうとする人の姿に散りぢりになる住居を右へ左へと逃げ惑っておりました。
 それでも最後、ぷつりとも切れた蜘蛛の糸。
 ほんの僅かな朝露とて、水の溜まりに成りましょう。ぽちゃんと、私は溺れましょう。
 もし、まだ余力がありましたら這いでることが出来ました水の溜まりも、死にかけの蜘蛛にとってはどう足掻いても抜けだすことのできない、それこそ地の獄の血の池で御座います。本来のそれを知っております今となれば、例え話では御座いますけれど。
 かぷかぷと空気のあぶくを吐きだしながら蜘蛛はもがき苦しみますけれど、水面を抜けることなど出来やしません。溜まりの底へ底へと、沈むばかりで御座います。
 嗚呼、私の生というのはこのように終わるのか。
 そうにも最期のあぶくが吐きだされる間際でしょうか、私の身体は上へ上へと、水面へ水面へと昇っていったので御座います。いいえ、霊魂の話では御座いません。それはすくいで御座いました、まさしく。
「     」
 その時の私には人と人の言葉が解りやしませんから、溺れる蜘蛛を指先にてすくったその童が口にした言葉が何であったのか、今でも知り及びません。
 けれども、水底から水面へ抜けて、仰ぎ見た先の蒼い空と人の子の笑みというものが、何処までも私の救いで御座いました。その後の、私のよるべで御座いました。
 葉の影にそっと降ろされた私は退くのも身を捩るのもせず、身体の動かし方を忘れてしまったというようにただただ自身をすくったその人の子を見上げておりました。
「                               」
 言葉は解りやしませんでしたけれど、童は自身よりも遥かに身の丈の大きい者になんにひとつも臆することなくこれ当たり前というような表情で、それでいて説くようにも仰っていたようでした。そうしてその身の丈の大きな者は、敬うようにも童の前にこうべを垂れているので御座います。
「           、シッダールタ様」
「              」
「シッダールタ様、          」
 人の言葉は解りやしませんが、何の因果かその音が蜘蛛の聴覚にも引っ掛かったので御座います。『シッダールタさま』そうとも心中で呟いたのが最期でありましたでしょうか。
 すくわれた私です、けれども弱っていた身で御座いましたのでやはりもう、駄目で御座いました。
 糸が切れるようにも、ぷつりとその私の意識は途切れおちたことでした。

 さて、次の記憶で御座います。
 其処には赤子の泣き声が木霊しておりました。いえ、その声というのが私のものであるというわけでは御座いません。私と申しますと、ふとこれが一度目の生ではないと気付くと同じに自身が部屋の片隅に巣を紡ぎ生きる蜘蛛であると理解しておりましたので。
 これは丁度好い。と、思いました。蜘蛛の子は(少なくとも私の種族は)親に習うことはありやしませんけれど、他の生物はそうでもないとも知っておりましたゆえ。
 小さな赤子を抱き揺らす大きな揺り籠の側には母で御座いましょうか乳母で御座いましょうかどちらにせよ、女人がおりました。その唇が乳飲み子へと語りかけるそれから、徐々に徐々に私は、人の言葉を学んでいったので御座います。蜘蛛の私には、それを紡ぐ唇がありませんでしたけれど。
 子守唄の音律に合わせるように己の巣を些細にも揺らしてみたり、聴く御伽噺の中の者のように巣の端っこ振る舞ってみたり、揺り籠の側にするりと糸を垂らし降りてみたりもしておりました。時には、泣く赤子の眼差しの先であっちへ行ったりこっちへ行ったりを繰り返して子守りの真似事さえしたことが御座います。
 何と申しますか、私が人の言葉を理解するのに二度目の生だけで事足りたかと問われればそうではないと首を振ることです。やはり矮小な蜘蛛でありましたので、その間にも二三死にまして。死んで、生きて、死んで、それでもその子の側に生きて。つまり私は、赤子が七つに近く成るころほどに其処で生きていたので御座います。
 私がその子の側に在ったのは何故かとお思いにもなるでしょう。流転の後に其処に命が在った由縁という意味合いではなく、幾度目かの生でも私がその子の側をひとっつも離れなかった理由の話で御座います。それはたわい無いことで御座います、その子に面影をみていたに他なりません。誰のと申しますのは、無粋で御座いましょう。
 そうして、泣き声をあげていた赤子も七つに。ラーフラは七つの童と成っておりました、私は依然として蜘蛛でありましたけれども。
 そういうことでは御座いませんでしょう、ええ勿論。今振り返るなら僅かに滑稽なことです、面影をみるのも、無理もないことです。翌朝に野にいでるその折、眠る我が子の顔をそっと見に参った貴方さまを見やった時にようやっと気付いたようなもんです。
 シッダールタさま、と、人の声も身体も持たぬのに呟いたような心持ち。
 その顔も御身体も、確かに凛々しく成年のものでありましたけれど、私をすくってくださったその御方であるというのがひしひしと解るようで御座いました。
 そしてこれは、恥ずかしい話なので御座いますけれど、幾度の生死でも忘れえぬ御方に再び出逢えたことに感極まった私はと言いますと、落ちたので御座います。ラーフラの眠る寝台からちょっこり。蜘蛛が転落死など、ほんに恥ずかしい。ですからこれは、貴方さまにも秘密のことで御座います。

 ふと気付くと私は、たくさんの蓮が揺れる池、蓮池のその蓮の花先にぽつねんと在りました。玉のような真白な蓮の、そのすべりともする花びらにどの手脚も突け、ぼぅっとしていたことで御座います。
 真白の丁度真ん中にある金色の蕊がきらりとも光りやしませんでしたけれど、私を小突いたようにも意識を手繰り寄せるに至りました。
 ──嗚呼、私はそうだ、死ぬたびに此処に来た。私はこの光景を知っている。
 仰ぎ見る私の眼差しはうっすらと白く霞む霧の合間を抜け、私の蜘蛛の糸にも似た色合いの天に泳ぎたなびく金色の雲へと向けられておりました。見えぬか其処にはおらぬ太陽やお月さまに祷るようなものです。
 もう一度、逢いたい。あの御方に、すくわれたことの感謝を告げられたらどんなにさいわいなことか。
 どこからかやってくる風がさぁさぁと蓮の花くびを揺らしまして、私もまた、己の銀糸にも思える糸を風に流し、辿り着くべきところへと参りますように、身を委ねたので御座います。
 そうしてくるりくるり、流れてゆくので御座いました。

 水面はほどよい陽光に照らされてきらきらと、その輝きはいっそさんざめいておりました。
 湖にも成らぬ小さな池は、ちろちろとした清水から成ったものです。その水源の規模と致しましては池と言ってしまうと誤りやもしれませんがその頃の私にはやはり大きなもので、今とありましては小さな水の溜まりも果たして池のようなもんです。
 さてそのような池のほとりに巣を作り生を営んでおりました、私は。そうしてその生の途中でやはり、嗚呼そうだ、私はそうだ、すくっていただいた蜘蛛だと思いだしたので御座います。
 それは、清水の原初のようにもちろちろと流れはじめ、そうしてあふれんばかりと成るのです。私の感情、思いで御座いました。小さな小さな蜘蛛の身体にこのようにもあふれんばかりを抱けるのかと、自身でさえ目を見張るさまで御座います。私は、あの御方、シッダールタさまに巡り逢いたくて仕方のない、一匹の蜘蛛で御座いました。
 それは何の思し召しであったのか、いえ、その突き止めなど本当はどうでもよろしいのです。ただ、貴方さまと再びを得たとありましては、由縁を知ろうとする余裕など何処に在りましょうか。
 かつて私をおすくいに成られた御手で清水を掬い飲むその御姿が、確かに、夢幻などではなく、其処に存在しておりました。
 私はと言いますと、やはり驚きを隠せませんでしたので、ぴょこんと葉の上に跳ねたことです。そうすると矮小な蜘蛛の身でありましても一枚の葉っぱそれ自体を揺らすことになりまして私は、思わずに池の水面へと飛びだしていたのです。
 さて一度目の生の死の一部を思いだします、迫りくります水面を思うと。
 果たして蜘蛛がぽちゃんと水面に落ちたかと申しますと、そうでは御座いません。
 徐に差しだされたのは嘘偽りなく貴方さまの指先で御座いました。蜘蛛は水底はもちろんのこと水面でもなく、貴方さまの指の上に在ったのです。
 やはり、この御方は私の救いでしかない。
 蜘蛛の眼差しを貴方さまの眼差しと一致させるようにじぃとしておりました私の身体は、先ほど跳ねた葉の上へと帰されました。もちろん、私はそのようになさらないでとも思いましたけれど。
 貴方さまの歩みはこのような池のほとりに終うものでは御座いませんから、そのようにも踵を返すようでした。
 私とて、巣も、営みも、全てを脱ぎ去るように追いますとしました。けれどもまあ、私は矮小なたった一匹の蜘蛛で御座いますから、馬の尾っぽに縋る間も無いものです。もちろん、御姿が眼差しにできぬと成りましても追いかけましたが、何日目かの夜に私と言いますと野の蛙の腹に収められてしまいまして。
 そうして、また、流転を重ねていったので御座います。

 次に『私』の意識が鮮明になったのもまた、生の途中でありました。死と生を幾度重ねたかも本当は定かでは御座いません。けれども、たった一度では無かったのでないのではないかと存じます。蜘蛛の祷りは、幾度重ねられたものだったでしょうか。
 例えば其処いらに転がる棒切れ、巨大でしかなかった棒切れは私の脚にも遥かに満たず、此の身体が露の溜まりに溺れるだなんてあるわけもない滑稽なことです。
 朝露の水溜りではおやまあとする私の姿の全体など映りやしません。川のせせらぎを覗き込み顔先を映す私と言いますと、矮小な蜘蛛と言いますと偽りとなるほどの体躯を得て山奥にてその生を紡いでいたので御座います。
 蜘蛛の私は喜びました。これで生き存えることが出来ると、そうして何らかの形であの御方に感謝を伝えることが出来るのではないかと。此の度の生でも巡り逢えると、疑うことを知りはしません。
 ──気付いてはおりませんでした、或いは儚い喜びです。
 果たして、人の身ほどもある蜘蛛を誰が受け入れましょうか。
 誓いましょう、確かに『私』の自我が鮮明となったのはその生の途中では御座いますが、決して、人を襲ったかとも食したこともありはしないと。けれどもそのようなことが分かりましょうか、人の目にはただの大蜘蛛、化物としか映る他ない我が姿で御座います。
 それはとある日、山の実りを得るに分け入ったのでしょうか、幼い娘と出会いました。此の姿、私を眼差しにした折のその心に浮かぶ恐怖や絶望は、最初の私が抱いた感情と相違ありますでしょうか。
 地面に尻を擦り付けるように僅かに後退し、それでも逃げだすに立てないでいる幼い娘を前に、極彩色にも似た途方もない感情が渦を巻き私を蝕むことです。
 娘の携えていた籠は地面へと放り出され、転げたそのうちの熟した実は僅かにその身をひしゃげさせておりました。それを脚の一本で拾い上げ、人の会釈の真似事をしてみます。伏せることとなる私の眼差しの先には、ぽったりぽったりと崩れ零れる果肉が地にぶつかっておりました。人の真似事ひとつ、それで和らげるなどなんにひとつもできないと解りつつ、諦めの境地でしかないのです。
 そのようなこともあり自身を見つめ直しましたので幾月、私の心は山を降りることと山の奥地で身を潜めることの二つで鬩ぎあっておりました。
 そうしてそれはさらに幾月の後で御座います。私のような化け物であろうと、産まれるには親が要りますでしょう。はて、ばったりと出会ったのです。
 それは食事中でありました。矮小な蜘蛛とは違い、体液を啜るでなくばりばりと肉も骨も喰らうそれにもしその時の私に眉がありましたらひどく顰めていたことでしょう。人の肉を喰らうその姿に覚えた嫌悪は或いは、自身へも。果たして眼差しを向けたそれと自身が、同等の存在で無いと誰が言い切れます。
 それで腹が立ってきました、もしくはそれは理不尽で御座います。人を喰う蜘蛛が在りますから、私とて恐れられると。八つ当たりに他なりません。
 親だ子だなど、蜘蛛には関係が御座いません。産んだ我が子を喰らう者があるように。
 飛びかかってきたのはあちらからでした。確かに、私も『私』の意識を放りだしてそうとしようとしていたに間違いは御座いませんけれど、死合いを寄越してきたのはあちらからに他なりません。言い訳めいて、おりますでしょうけれど。
 ただの蜘蛛の殺し合いならひと晩ふた晩もかかることは御座いやしませんけれど、化物と化物の殺し合いで御座います。ひと晩もふた晩も超え、長くに続いたことです。
 それは何度目の晩で御座いましたでしょうか、夜の闇を赤々と照らす灯りがうまれたのは。聴覚に、人の声が届いてきたのは。
 腹が空いていたので御座いましょう、それは。拾い食いに勤しむ暇などありはしませんでしたから。筋の一本でぶらぶらと繋がった脚やいびつな形にひしゃげた脚、無傷の脚などをざわざわと動かし、目の前におりました大蜘蛛は駆け行くようでした。行き先など分かり切ったこと。もちろん人の声、その袂で御座います。
 その時の私に舌が御座いましたら、舌打ちのそれをしていたやも。地に転がる千切れた自身の脚の一本でも拾って山奥に逃げればよろしいのに、その大蜘蛛を追ったのですから。
 まがつひの神であろうと時に信仰の対象と成るでしょう。人間よりも遥かに発達した聴覚にはその愚かしい行いの声、音が遠くに在りましても確かと解るものでした。そのまがつひの神が姿を現した時の人の子の悲鳴を聴覚は予測しておりました。
 けれども先に驚愕したのは私で御座います。私の聴覚は、その御方、シッダールタさまの御声を聴き取ったので御座いますから。犠の少女を救うその尊き行いの、その音に私の聴覚という機関は酷く震えたものです。
 地面を抉るようにも立ち止まったのは数秒で御座います、化け物で間違いのない此の姿を見せたいと思うものがあるでしょうか。けれども、再び駆けだすのに時間がかかることは御座いませんでした。それが人情にも似ていましたらさいわいですのに。
 照らされておらぬ闇から暗雲の塊が跳ねてきたようにもその場に躍りでた私という蜘蛛の、先に居た大蜘蛛に負けず劣らずの化け物の姿にやはり、人の子は或いは蜘蛛の子が散るようにも逃げ惑っておりました。
 幾つかの目でその場を見回しながらも、自身の装いに足を取られたようにも転げた人の子に襲い被さる大蜘蛛に飛びかかると同時に齧りつきました。上顎と下顎の合間に肉質を噛みしめたことへの、生物としての本来の悦びが生じようとして、それは同時に酷い嫌悪を齎します。
 そのようにも感情が過ぎりましたゆえか弱まった力に、私の顔先を蹴飛ばし逃れた大蜘蛛はよろめいた私に束の間も置かずに同じように飛びかかって参りました。
 二匹はひとつの塊のようにもくべられ燃える木々へと縺れ転がり、僅かに天地を見失う私の視界には火の粉が蛾の鱗粉のようにも舞っておりました。細やかな火の粉はまるで星の子たちのようで天の川さえ思わせるもので御座いまして、その川の先に、いつぞや出会った幼い娘、そうしてその娘を庇うように立つシッダールタさまの姿を見て、私がどれほどまでにもこの生を嘆いたことか。
 私の脚の一本を噛み千切り放り捨て、ぎぃぎぃと鳴く大蜘蛛の顔先は近くにありましたが、シッダールタさまの御持ちになられている錫杖からしゃらりとも鳴りました視界に舞います火の粉には似ても似つかぬ冷ややかな音、そればかりが私の耳元をくすぐるので御座います。
 自身の口元からは喉奥から迫り上がった体液が溢れ落ちたようでした。私の首元に齧りついた大蜘蛛の、牙にも似たそれがぎちぎちと私の節の表皮を破り潜り込もうとしております。ぷつりともみちりとも、張り詰めた果実、それの表皮から果肉に潜り込む切っ先の音がしたような。金属を仄かに引っ掻いたような音は私の悲鳴で御座います、蜘蛛の糸にて勢いをつけ手繰り寄せた燃える薪を胴体に突き立ててやりました。仕返しのひとつやふたつ、行わないでどうします。
 あたりには二匹の蜘蛛の、耳に不愉快な鳴き声と肉や体液の焼ける嫌悪を齎す臭いと色々が満ち渡っていたことでしょう。この場に転がりでてからほんの僅かにも成らぬ間の出来事で御座いますから、未だに散りきらぬ人の子も居りますし、やはりシッダールタさまも其処に居りました。
 ほんの僅かにも成らぬ間の出来事、けれども二匹の蜘蛛の殺し合いは幾つもの夜を跨いだものでありましたから、その僅かにも成らぬ間に、唐突にも終いがやってきたのです。
 私の一本の脚先は大蜘蛛の眼球を押し除けるようにも眼孔に潜り込み、その隔ての先、脳天へと辿り着いたようでした。跳ねます脚先は大蜘蛛の真際の痙攣と、脳を掻き回す私の念押しで御座います。
 べしゃりと、地に身体は伏せるでしょう。あたりが束の間静まり返ったような夜に、私とてその場息吐きとう御座いましたがそのようにはいけません。千切られた脚も置き去りに、息も絶え絶え身を翻しました。私もまた、人にとってはなんら変わらぬ化け物で御座います。
 木々の群れを抜け、ひらけた所にでますと夜の空におります星々と月でそれはもう明るう御座いました。さわさわと流れる小川のせせらぎは此の夜に何があったとしてもなんにひとつも変わりはしません、その水面には独り死にゆく蜘蛛が映り込んでいるのみです。
 それで、もうこの生命も駄目だ、こうしてまた死んでゆく。そうも身を伏せた私で御座いましたけれど、一度見返り上体を起こすようにもしました。けれどもやはり、伏せました。茂みを掻き分ける音に、その足音に、私は解っておりました。
 やはりどうして、御姿はシッダールタさまで間違いが御座いません。死にゆく蜘蛛の幻のそれではありませんでした。
 ──そうか、私はこの御方の手で死ぬのか。
 無感情にもぽつねんと思いました、それもまた因果でありましょう。
 全てを受け入れるようにも、身動ぐことなくその時を御待ちしておりました。そのようにも地に伏せる私のかたわらに片膝を突き、ひしゃげた脚の付け根に触れた貴方さまのその手にどんなにも驚いたことでしょうか。
「ありがと、助けられた」
 或いは、その声色の慈しみに私の心の臓は酷く脈打っていたのです。けれども違います、違うのです、貴方さま。助けられたのは私で、他ならない私で御座います。蜘蛛は、独り寂しく死ななかったのですから。

 そして私は蓮池に身を浸しながら、願ったのです。貴方に感謝を伝える声が欲しいと。

 次の意識を得た瞬間、私の肺には数多の水が流れ込んできました。水面と水中を繰り返し、水面を抜けた折には肺に満ちます水を押しだすように歪にも呼吸を繰り返しておりました。そうして溺れながらも本能でもがき伸ばした腕は、二本の腕は、岸辺へと身を這い立たせます。
 ずるりとも陸地へ這いでた私は、ずるりとも人の体を得ていたのです。
 いいえ、この言い方では正しくは御座いませんね。肺や気管に潜り込んだ水を拒絶、咽びながらも覗き込んだ水面に映り込む私というのは、下半身はやはり蜘蛛のそれでしたから。それでも一本の腕の先、指先に添い当てた喉やもう一本の腕の先にて夢ではあるまいかと拭った頬はまさしく、人のものでありました。その瞬間の喜びをどう言い表せましょうか。
 勿論のこと私はシッダールタさまを探す路に立ちました、出逢えることを疑わぬ心持ちで。たっぷりとした布地の装いにて蜘蛛の半身を隠しながら、朝も夜も貴方さまの御姿を御名前を追い縋っておりました。
 何度めの陽光で御座いましょうか、其処に辿り着いたのは。
 人を装ってはいますけれど見下ろすようにもしてしまうそれでお立ちになっている方にお尋ねし、貴方さまの行く末を知ったのは。
「モシ、もし、其方のヲ方、シッダールタさまを、ゴ存じではないでデショウカ」
 その方が僅かにも後退するように驚いたのは最初は私の形相で間違いないでしょうが、辿々しくも紡ぐ私の言葉が重なる毎に次第に深まる表情の悲痛さと言いますと、嗚呼それで、私は忘れていたことを思いだしたようなものです。気付いたようなものです。人もまた、死ぬということを。
 あの日みた蒼い空よりも蒼き空のその果て、其処に辿り着こうとするようにも昇る煙のたなびきを、私は見仰ぎ、両の手の指先を絡み合わせるようにして顔を伏せる他ありませんでした。
 それが、現し世での最期の記憶です。

 蓮池の蓮たちを伏せた顔で見下ろしながら、僅かに申し訳なく思ったのは骸を突然にも横たえてしまったことでしょうか。思考が貴方さまのことではなくまずそんなことに向いたのは、ある種の逃避行動でもありました。死は、尊い御方の死はこんなにも受け入れがたい。
 蓮はその花弁を揺らして私の脚元に擦りつくようでもありました、それはまるで慰めるさまに御座います。水面には私のなんとも言い表しがたい表情が映っておりまして、人の表情の作り方なんてひとっつも分からないと言うように唇を吊り上げてみますと、なるほど笑んでいるはずですのに笑みの顔に近くもなりやしません。
 蜘蛛の脚にて微かに水面を蹴りました、波紋で崩れる水面に映った私の表情が、人の泣く顔のそれに似ます。
 蓮たちの合間、蓮池に崩れ落ちた私の脚はその時、人のそれで御座いました。仮初であろうと、その時、私は人の姿を得ておりました。つま先から頭の先、髪の毛の先まですべて人の子でありました。けれども、果たして何の意味がありましょうか。私がそう望んだのは、望んだ意味は、もう在らぬとすれば。
 もうこの生命に固執などありはしない。
 そうと唇から零した音は、あぶくにも成るようでした。崩れ落ちていた蓮池はまるで底など存在しないように何処までも深くなり、私の髪も装いも水中にて泳いで、肺はただただ気体をあぶくと送りだしてゆくものです。
 天も地も分からぬと申しますより、どちらでもよろしいものですから、昇っているのかおちているのか分かりやしません。望むそのひとつに辿り着けぬのであれば、昇るもおちるも些細でしか御座いません。
 あぶくは六つ、五つと姿をひそめて参ります。疾うにさようならをしたのに未だか未だかと私は、またひとつとあぶくを送りだしてゆきます。
 四つ、三つ。
 本当は、感謝の気持ちひとつで繰り返してきたのでは御座いませんでした。
 二つ。
 本当は、唯々。
 ひとつ。
 ──蜘蛛は、恋をしておりました。
 ばしゃんと成った水面も、飛礫と成った水滴にぶたれる蓮も、其処に在ったはずで御座います、けれども私の耳はそれを捉えることができませんでしたし、眼差しだって確かにしとう御座いましたのに、一度見開いた後は溺れた水の中であるように、しっかり見ることができなくて、喉はずっと呼びたかったその名を紡ぐことがどんなにも難しいとしまるばかりで御座います。
 けれども、すぐに言葉を紡ぐことができなかったとしても、私を抱き上げるようにもすくいあげたその御方は、貴方は、間違えようもなく。
「嗚呼、私、私、貴方さまを」
 貴方さまだけを。
「お慕い申し上げております──、」


「──シッダールタさま」
 不意に、自身のうたたねの合間の呟きに意識は浮上したようでした。或いは、びくりとも跳ねた貴方さまの肩先の為でもありましょうか。
「あぁ、私はまた、また、居眠りのそれを……」
 何も手繰り寄せるものも無いのに片手のひらに蓮を模した寝椅子のさわりを感じておりまして、それでやはり居眠りをしていたのだなと思いあたります。夜行性の蜘蛛で御座いますから日中に眠くなるのは致し方ないとは存じましても、うたたねてしまうことは遠慮しとうことで御座いました。
「私、他に何かしくじりがありはしなかったでしょうか。……、どうしました」
 寝椅子で溺れるだなんてことありやしませんけれど、好いた御方の前で万が一を成しておりましたら果たして、羞恥に繭にでも包まってしまいとう御座いますから。そのようにも尋ねた私に貴方さまは神妙にも思える、なんだか、不思議な表情をしておいでで。
「いやちょい待ち、ちょっとこっち見ないで」
 私の眼差しが貴方さまからお部屋の片隅へと向いたのは、偏に貴方さまの指先が私の顎先を摘むようにして顔先の向きを変えさせたからでした。
「私、そのようにも、酷い、失態を」
「あー、そうじゃない、そうじゃ。でもちょっと落ち着かせて」
 眼差しを向けることすら許されないのなら、心を向けることなど許されるはずが御座いません。
「それでも、私、貴方さまをお慕い申し上げていて、シッダールタさ、」
 思わず自身の唇を同じく自身の片手で覆いました。頬に熱が集うのを感じます、うたたねに惚けていたことに気付いたとも。
「ダメ押しってさ、知ってる蜘蛛ちゃん」
 はぁとも零された吐息が、互いの合間におちながら宙に掻き消えていったようで御座いました。そうして徐に私の耳元に寄せられたのは貴方さまの顔先で。
「    」
 それはシッダール、いえ釈迦さまに名付けていただいた個体名で、私の名で御座いました。耳が、喉が、機関がざわざわとするような感覚に襲われますれば、もう、どのようにして呼吸のそれを繰り返していたかてんで分からないようなものです。
「意地が、悪う御座いますわ」
 シッダールタさま。聞こえるか聞こえないかの声量で呟きました、もちろん互いの合間に距離などあってないものと存じておりましての、呟きです。
 私の眼差しは帰りゆくものです、それで、貴方さまと私との合間に色眼鏡がかちゃりとも音立てたようでした。
 そうして、天も地も分からなくなりましょうか。くるくるり。